山口情報芸術センター[YCAM] アーティスティック・ディレクター 会田大也さん
メディア・テクノロジーを用いた表現の創造・実験の場である山口情報芸術センター[YCAM]で、アーティスティック・ディレクターを務める会田大也さん。ミュージアム・エデュケーターとして、YCAMだけに留まらず国際芸術祭「あいち2022」を始め、多くのアートフェスティバル等で教育プログラムの開発に携わられています。具体的な実践をひもときながら、作品鑑賞がもたらす豊かさや、地方における人材育成など、多岐にわたるお話を伺いました。
聞き手:蔵多優美/
写真・当日コーディネート:三宅航太郎/
テキスト:犬間東悠/
編集:野口明生
インタビュー実施日:2022.11.10
記事公開日:2023.03.03
─── 会田さんがキャリアをスタートされたのが、山口情報芸術センター[YCAM]ですね。YCAMで働くことになった経緯を教えてください。
会田:岐阜県大垣市にある情報科学芸術大学院大学 [IAMAS] [1]を卒業するタイミングで「新しくできる“山口情報芸術センター”っていう施設の採用面接が1週間後にあるんだけど来ない?」と、声をかけていただいて、受験したら合格したというところです。新しいアートセンターの立ち上げに携われる機会なんてめったにないことですから、すごくラッキーでした。
─── もともと美術教育を専攻されていたのでしょうか?
会田:いいえ、美術教育やワークショップデザインについてはまったく知らないまま、YCAMでの仕事をはじめました。東京造形大学やIAMASでは、街中で現代美術の展覧会をつくったり、作家として作品の制作をしていたんです。教育に関しては未経験でしたが、周囲に見る目の厳しい人たちが多いと意識していたので、一定のクオリティを保ったプログラムを開発しなければならないと感じましたね。
─── YCAMの教育プログラムの特徴に、メディア・テクノロジーを通じて、様々なものの見方や考え方を体験しながら学ぶ「ワークショップ」が挙げられますね。これまでにも多くのワークショップを開発、実施されていますが、特に直近で実施された「ビデオ・プリゼント」[2]が気になっています。どんな内容のワークショップなんでしょうか。
会田:「ビデオ・プリゼント」は、障がいのある当事者の方にiPhoneで短い映像を撮ってもらうという内容のワークショップです。「カメラは三脚の上に固定して動かさない」「ズームはしない」「30秒から1分の長さ」というルール(リュミエール・ルールと呼ばれるものの中から3つ)をお伝えして撮影をしてもらいました。
─── すごくシンプルな内容ですね。
会田:10年前であれば、映像撮影や編集には高価な機材や専門的な技術が必要でしたが、今ではスマートフォンがあれば、手ぶれ補正の効いた撮影から編集まで、手軽に試せるようになっています。これまで映像制作に縁遠かった人たち、例えば障がいがある人たちにとっても、ぐっと参入のハードルが下がったわけですよね。今回は、自閉症などの障害がある人たちに「普段見ている風景をそのまま映像に撮ってもらったらどんな映像が見られるんだろう」という、僕の興味から出発した部分もあります。「見えづらかった世界が、テクノロジーが身近になることで見えやすくなる」というテーマも感じられて、YCAMらしいワークショップだなと思います。
─── 私自身も障がいのある方とのアート・プロジェクトに携わっているので、とても興味深く感じています。実際に取り組んでみて、いかがでしたか。
会田:いかに僕たちがルールに縛られて映像を見ていたかということを感じました。
いわゆる一般的な映像作品において、画角の中にある人物が映っていたら、人物の心の動きを表すためのカットが記録されていたり、アップで映し出される箇所には何かしらのメッセージがあるとか、そういった暗黙のルールの上で制作されています。その基礎があるからこそ、僕たちも登場人物の心理やストーリー展開に迫っていくことができます。一方で、今回撮影された作品は、人間が木々や建物と並列に扱われて、風景の一部と化してしまうということが起きていたんですね。人間を中心に映像を撮っているわけではないんです。これは自閉症の特性の一つである、他人の心が想像しづらいということが関連しているのかもしれません。彼らの作品を見たとき、自分がいかに映像の常識に囚われているか知りました。また、参加者の保護者が「映像作品を通じて、この子が普段何に注目しているのか、はじめて見えた気がします」と仰っていたのが印象に残っています。
─── 普段からずっと一緒にいる親子でさえ、はじめてわかることがあった、と。
会田:そうですね。子ども本人が見えている風景を覗くために、間に作品が媒介している必要があったんだなと思います。今回みたいにアートを真ん中に置いてみると、作品が他者との窓口になってくれることがあるんですよ。
結局、僕たちは身の回りの日常的な枠組みや世界観に囚われて生きていくしかありません。その世界観の外からやって来る人たち、つまり本当の意味の「他者」と出会うために、アートが寄与するのかなと思っています。
いずれにしても、日常的なフレームの中ではなかなか開通しない回路がひらいたっていう感覚があったので、やっぱり作品を通じてやりとりしていくことってすごくいいなあと思いましたね。
—— YCAMではワークショップの他にも、ギャラリーツアーなどの様々な教育プログラムが展開されています。実はこの基礎となっているのは、対話型鑑賞だと伺ったことがあります。なんと、アメリア・アレナス[3]が山口に来たことがあるんですね。
会田:はい。山口県立美術館が対話型鑑賞にかなり力を入れていた時期があって、2005年にアメリアを山口に招待した[4]んです。そのワークショップの会場がYCAMだったので、僕も参加しました。実はそれ以前に、彼女が京都の大学で授業をしていた際に潜り込んで話を聞いたこともありますが(笑)。
—— 当時、初めて対話型鑑賞という考え方にふれた感想をお伺いしたいです。
会田:「自分が作家だとしたら、こういう鑑賞教育は一番マシだな」というのが第一印象でしたね。作品と鑑賞者の間にガイドのような役割の方がいて、いわゆる作家の意図を代弁されてしまうのは、作家自身にとって不幸なことも起きやすいといいますか。「自分、そんなこと思って作ったわけじゃないのにな…」というようなことを言われかねないですよね。それよりは、鑑賞者同士はどう思ったのかということを議論してもらったほうが建設的だと思いました。
—— 2005年というと、まさにYCAM開館直後ですね。当時実施されていたワークショップと対話型鑑賞との親和性については、どのように感じられましたか。
会田:そもそもワークショップは、作品に対して批判的な思考を促す教育コンテンツとして実践していました。第一に、展示されている作品があるならば、鑑賞者とその作品の間でダイレクトにコミュニケーションをとってもらうべきだろうと考えていたので、教育コンテンツはその次に「脇からこんな見方もあるよ」「こんなふうに読み解くともう少し立体的に見えるよ」といった第三の視点を投げかけるものとして設定していました。そういった意味では対話型鑑賞も担っている役割は同じだと思えたので、スムーズに導入できましたね。ただ、当時、対話型のギャラリーツアーを催しても参加者数が少なく、徐々に実施の回数が減っていきました。今思えばニーズの有る無しに関わらず、基本的な機能として継続していればよかったなと思っています。
—— ワークショップは作品鑑賞の補助線のような役割を担っていたんですね。会田さんが手がけられたプロジェクトに「コロガル公園」[5]シリーズがあります。教育普及担当だった会田さんがワークショップという枠を飛び出して、ひとつの展示をつくることになったのはどうしてでしょうか。
会田:僕の関心の中心は「作品に対して、鑑賞者っていったいどんな存在なんだろう?」というところにあったんです。
いわゆるアート作品って、作家が何か思考したり、考えを深めたプロセスの象徴として生まれるものだと思うのですが、すでに作品として提示されてしまった時点で、ある種「過去」のものに見えてしまう人も居るかも知れない、と思ったんです。それならば、むしろ、鑑賞者が作品鑑賞を通して体験している「今ここ」を見るべきなんじゃないかという考え方がずっと自分のなかにあったんですね。
—— 会田さんにとって、もっとも興味深く感じられたのが、作品を見ているときの鑑賞者の思考だということですか。
会田:鑑賞者が、作品を見て思考しているプロセスだったりとか、心の中で巻き起こっている解釈や批評、既存の価値観が転換してしまった瞬間とか…そういった内的な動きについても、作品と同じぐらい注目するべきものなんじゃないかと思っていました。ただ、当たり前かもしれないけど、作品鑑賞って「作品」が見るべきものとして中心に置かれて、どうしたって鑑賞者が周辺に追いやられてしまうんですよ。だから、鑑賞するべきものをどんどん減らして、徹底的になくしていったらどうなるだろう、さらに、来場者と鑑賞者がそこにいることで生まれていく「なにか」を最大化していくとどうなるだろうということが見てみたくて、「コロガル公園」シリーズが始まりました。
—— YCAMは外部からのアーティストを山口に招いて、協働しながら作品を制作・展示するスタイルが特徴でもあると思います。でも「コロガル公園」シリーズでは、従来の意味での作品を展示しているアーティストというよりも、会場設計としての建築家[6]とYCAMが協働してプラットフォームを形作り、その上で遊ぶ来場者の活動が目立っているような気がします。
会田:作家がいて、作品があって…ということではなくて、2012年に開始した最初のコロガル公園では、作家をたてずにYCAM内部のスタッフの力で環境を準備しました。うねる大地があって、自然があって、それと並列にLEDやスポットライト、マイクやスピーカーなどのメディア機材がある。そのうえで、ここでの遊び方や過ごし方を自由に考えてみてくださいって投げかけてみる。すると、そこで生み出されるいろんなアイデアや考え方が、進行形として目の前で見られるじゃないですか。
コロガル公園ってかならずベンチみたいな鑑賞席があるんですよ。これは、劇場になぞらえているんです。鑑賞席があることによって、観客が別の立場から起きている出来事を眺めるっていう構造を必ず入れるようにしているんですね。つまり、起きていることを「プレイされるもの」として捉えることができる。遊びの意味のプレイでもあるし、演劇を上演するっていう意味のプレイでもあるんだけど、プレイが起きている状態っていうのをひとつの場として設定しています。そこで起きる悲喜こもごものドラマとか、ルールメイキングみたいな創造的活動を眺めるっていう構造にしてあるんです。表面的に見れば遊具とか遊びの施設として捉えられることが多いのですが、アートの文脈から考えたときには、コロガル公園はこういった観客論として実現しているといえます。実は、あいちトリエンナーレの「アート・プレイグラウンド」[7]の「あそぶ」にも、周辺部を辿っていける道がつくってあるんですが、あそこは鑑賞席なんですよね。
—— ちょうど話題になったところで、会田さんが関わった2019年「あいちトリエンナーレ」[8]・2022年の国際芸術祭「あいち2022」[9]でのお仕事についてお伺いしたいと思っています。まず、愛知でのお仕事に携わられたきっかけを教えてください。
会田:2014年に一度YCAMを退職した後、東京大学大学院 情報学環の特任助教として、ワークショップデザインを教えていました。実はこのときに、2016年の「あいちトリエンナーレ」に関わってほしいとお声かけいただいていたのですが、一度お断りしているんです。東京大学での仕事が始まったばかりでしたし、初めてのプロジェクトなのに遠隔で携わることはご迷惑をおかけすると思ったんです。そうしたら、ありがたいことに2018年の段階で再びお声かけいただいたんです。津田大介さんが芸術監督に就任されることも存じていたので、これまでにない芸術祭になるぞという期待もありました。それから、大学の任期など、さまざまなタイミングが重なってお受けしたという経緯です。
—— 私は、2019年の「あいちトリエンナーレ」そして、2022年の国際芸術祭「あいち2022」でラーニング・プログラムを拝見して、率直に言うとすごくわくわくしました!プログラムの内容は、会田さんを含めたラーニング・チームで設計されたのでしょうか。
会田:「アートフェスティバルでの学びを設計してください」と言われて、パッと思いつくのは「現代美術について知ろう」とか「作家について深く掘り下げてみよう」みたいなことですよね。これは当然求められることではあるし、でも、誰でも思いつくことだからあまりやる意味がないんじゃないかなと思ったんですよ(笑)
じゃあ何が必要かと考えたときに、YCAMの教育プログラムを設計する上で肝にしていた「第三者的視点」を提供できる装置であり環境だと考えました。作品と観客の間に立って知識を教授するのではなく、第三者的な視点を提示して、鑑賞が多面的・多層的になるようなしかけができたらいいなと思ったんです。たとえば、一見するとアートや教育と関係のなさそうな、「あそぶ」「はなす」「つくる」「もてなす」「しらせる」という行為を作品の周辺に置いてみると、より鑑賞体験を深めることができるんじゃないかと。
会田:「はなす」についてもう少し突っ込んだ話をすると、実は作品についてふりかえったり、議論する場が設けられている芸術祭ってあまりないなと思ったんです。相馬千秋さんがディレクターだったときの「フェスティバル / トーキョー」[10]では、ディスカッションの場が用意されていた記憶がありますが、それ以外、議論の場が用意されているのは、まだまだ数が少ない気がします。改まった「対話の場」でなくてもよいと思いますが、鑑賞者同士が議論したり、コミュニケーションできる場は絶対に必要だと思ったので、一番最初に「はなす」を取り入れたいと思いました。
それに、何かにインスピレーションを受けたり、深く考えたりしたら、なにかしらの形でアウトプットしたいんじゃないかなと思って「つくる」「しらせる」を入れてみようかな、みたいに考えました。
—— なるほど。愛知に行った2019年当時のことを、今、思い出してきました。私は大学時代の友人たちと行ったのですけど、私以外のみんなは現代美術の作品をしっかりみることに関心があったんです。でも私は、ラーニング・プログラムや場づくりがどんなふうに設計されているのか、どんなコミュニケーションが立ち上がっているのだろうということが結構気になっていました。
会田:作品を見て何か考えたことを誰かに伝えたいって思うのは、自然なことだと思います。感想をブログに書いたり、ツイッターでつぶやくというのが普通のやり方かもしれないんですが、もっといろんな表現の仕方が用意されていれば来場者は創造性を発揮するんじゃないかなと考えました。
—— 会話や、SNSで発信するだけではない多様な表現方法…たしかに、私ひとりだけ「しらせる」で、ガリガリとシルクスクリーン刷ってたりしたんですよ(笑)。
会田:そうだったんですね(笑)。
「しらせる」では、まず来場者に「誰になにを伝えるか」という「メッセージ」をつくってもらうことにしました。次に、そのメッセージをどういった言語で表現するのがよいかという話になったんです。「しらせる」の会場になった豊田という地域は海外にルーツを持つ住民の割合がとても高いところで、さまざまな言語を母語とする人たちが暮らしている。とはいえ、日本人の来場者が、母国語でもない場所で生活する彼らのことを想像するにしても限界があります。じゃあ、母国語以外の言語を使ってみるという場のルールを設定したら、人はどうやってコミニュケーションをとるんだろうという興味がわいてきたんです。そういう意味では「しらせる」も、アートは他者と出会うためのものだっていう考え方が色濃く反映されているプロジェクトだったと思います。実は、最初に日本語と英語をこの場で禁止するというアイデアを出してみたのですが、他のスタッフたちから「それは無理でしょ」って反対されました。今でもめちゃくちゃいいアイデアだと思ってるんですけどね…(笑)
—— 改めてプログラムを眺めてみると、この中で「もてなす」はかなり異彩を放っているような気がします。当時は「なんか、すげえな〜」くらいの気持ちで見ていたと思うんですけど(笑)。「もてなす」がここに加わった経緯について教えていただけますか。
会田:「もてなす」という言葉には裏表の意味があるんです。ひとつは、商店街の人が、来場者をもてなすということと、もう一方は、逆に来場者が商店街をもてなすということです。
リサーチ段階で、商店街のかたに「何かお悩みってあるんでしょうか」と尋ねたら「商店街オリジナルの名産品ってないのよね」と言われたんですね。「じゃあ、世界のいろんなところからやって来るアートに興味のあるお客さんたちが、商店街のために名産品を考えるアイデアを投げかけていったらいいんじゃない?」と思ったんです。そうすることによって、会期が終わったあとにも「私が投じたアイデアは実際に採用されているのかな?」って考えてしまって、来場者と芸術祭・商店街との関係性がだらだらと続きますよね。パッと家に帰ってしまったら終わりではなくて、その場にいなくなっても、あと引くようにずっと関係性が続くというのが、僕はすごく好きなんです。そういった関係性を「もてなす」という行為でつくれるかもしれないと思って、この取り組みを考えました。あとは「もてなす」の商店街を拠点にすると決まったときに、街中が会場ということで暑いし、おしぼりとかがパッと出てくるようなしかけがあるといいなっていう話はありました(笑)。
—— 「アート・プレイグラウンド」という場があったことで、作品だけじゃないチャンネルで、もっと作品のことを知ることができたんだなって思いました。もちろん、直接作品を見たり、体験して気づかされることもあるんですけど…。「しらせる」が特に印象に残っているのは、他の来場者の方が感じたこと、考えたことを知ることができたからかもしれません。一緒に行っている友達と話すのとは、また違うコミュニケーションをとっている感覚を味わいました。
会田:なるほど。
—— 「この人はこう思ってるんだね」ということを知って、そこからまた対話が始まるっていう体験がすごく楽しくって。
会田:そうだとしたら、僕らの狙い通りです。
—— うふふふ(笑)。
会田:嬉しいですね(笑)。
—— ラーニング・プログラムには「アート・プレイグラウンド」以外にも、ツアー形式の活動がありますよね。愛知の会場で偶然会田さんにお会いしたときに、対話型鑑賞のツアーに参加させていただいたのですが、ご一緒したボランティアの方が2016年からずっと芸術祭に携わっておられるとのことで、とても驚きました。ボランティア育成にも会田さんは関わっておられるんですか?
会田:そうですね。ボランティア研修の講師としての関わりが深いと思います。国際芸術祭「あいち2022」では何時間やったかな…28時間とかだったかな。すべての研修を受けると、それくらいの時間数になるように設計しました。
—— す、すごい!
会田:ボランティアへの対価って、お金ではないし、かといって、かならずよい経験が積める保証もないので、もう研修しかないなと思ったんですね。「あいちトリエンナーレ」の芸術監督だった津田大介さんが、北川フラムさんから聞いて印象に残った言葉を紹介してくださったんです。「作品やキュレーターは、フェスティバルが終わればいなくなってしまうけど、ボランティアのみなさんはこの土地に残る存在なので、その人たちが何を得られるのかっていうところが一番のポイントなんだ」と。つまりボランティアさんこそが一番の主役だと仰っていたみたいです。だから、できるだけ研修の機会を増やしたいと津田さんも仰ってましたし、研修を受けたいと言ってくださる方が大勢いたので、これには応えたいなと思っていました。ただ、今回は予算の都合で外部講師を招けなかったので、すべての講義、トータル100時間あまりを僕がやりました。それをぼやき的な感じでメンバーや受講生の方にこぼすから「会田さんはめちゃくちゃ頑張ってくれている」ってねぎらわれて(笑)。
—— それは、確かに会田さんに対して親近感をおぼえますし、ねぎらいたくもなります(笑)。
会田:こうやって、ボランティアメンバーとの関係性ができていくんですよね。完璧な研修なんてないと思っていますけど、ありがたいことに評価してくださる方もいて、頑張った甲斐があったかなと思ってます。本音を言えば3年に1回じゃなくて、毎年継続しないと意味がないとは思うのですが、この頻度だから続けられるという面もあるのかもしれません。
—— 私自身が鳥取に住んでいて感じることなんですが、都心部と比較して地方では美術に意識的にアクセスしないと情報が得られないと思うんです。普段美術に興味のない人たちが関わる機会を設けないと、新しい美術館をつくったり、芸術祭を開催しても、その価値を理解されずに広がりがないんじゃないかって危惧していて…。会田さんは、山口や愛知のようないわゆる地方でミュージアム・エデュケーションを経験されて感じたことはありますか?
会田:愛知のポテンシャルがすごく高いなと思うのは、毎回1000人とか、800人とか、そういう規模で研修を受けに来られるんですよね。
—— そんなにいらっしゃるんですか!
会田:そうそう。これだけの人数と厚みで、対話型鑑賞についてみっちり研修やロールプレイもやるんですよ。これが3トリエンナーレか、4トリエンナーレぐらい続けば、土地が変わってる状態になるんじゃないかなってマジで思いますね。対話型鑑賞の研修って、4人から6人で一組になって作品を見せながら話すっていうことですから、規模を広げてナゴヤドームくらいでやったっていいんですよ(笑)。野球選手なんかも呼んでみたりしてね。美術にゆかりのない人が入ってくることの価値もありますから。
ただ、何百人単位の研修を急にやりはじめるって大変なことだと思います。愛知の場合は芸術祭をきっかけにして、こんな大規模な研修が常態化してしまっているというのが、なによりの強みじゃないでしょうか(笑)。
—— それだけ多くの人が集まると、一気にその土地の文化として定着してしまいそうですね。
会田:本当にそう思います。たぶん、山口で対話型鑑賞についての研修をやろうって企画しても、せいぜい集められるのは30人くらいじゃないですかね。もっと参加したい人はいるかもしれないけど、活躍する場がないと、集まらないでしょう? だから、そういった場が作れたら可能性はあるかもしれません。
ただ、研修を受けた全員がいわゆる正しい方法で対話型鑑賞のファシリテーターにならなくても良いのかも知れません。「アートには正解がある」って思い込んでいたなら、鑑賞って作者の意図を当てるゲームじゃないんだって知る人が増えるだけでもいいと思っています。こういう人が平気で1000人単位で増えていくってやばいなと思ってて(笑)、このチャンスは逃しちゃいけないというふうな気持ちですね。
—— 会田さんが考える、今後必要とされる鑑賞教育・美術教育のあり方を教えていただきたいなと思います。
会田:美術大学で行われる美術的な教育や、考え方の教育っていうのは、実社会で非常に役に立つということをもっと言っていきたいですね。従来であれば美術大学って絵の技術を教えるとか、彫刻の掘り方を教える場所だと捉えられていたんですけれども、実際に僕が美大に通ってた20年前は何が行われていたかというと、やっぱり考え方を学ぶみたいなところも結構大きかったなと思うんです。
少なからず美術大学以外の大学では、先生の出す課題が「絶対」になってしまっている気がします。つまり、課題に対する正解の範囲がかなり限定的に決まっている。学生にとってみれば、ある範囲の中の正解を狙いにいくゲームみたいに思えますよね。
ところが、美術大学では、課題を乗り越えて、課題を曲解して、一か八かで答えを出してくる学生がホームランを打つっていうパターンがあるんですよ。それってまず、課題に対する疑いがないとできないことなんですね。「この課題って本当に正しい問題設定なのかな?」って疑う思考方法、つまりメタ的な思考、またはメタ目線が必要になります。
実際に世の中で求められている課題解決能力って、メタ目線がないと解けないような問題が多いじゃないですか。たとえば避難訓練ひとつ取ってみても、訓練自体を手順に沿って完遂させることが目的なのか、それともいざというときの生存確率を上げることが目的なのかわからなくなるときがあって。経験のあるシチュエーションには対応できるけど、不測の事態が起きたときに対応できない。原発事故の後処理にもそういった部分が垣間見える気がします。
会田:現在、YCAMではアートや学びに関するイベントの企画制作に携わる人材を育成する架空の学校「アルスコーレ」[11]という事業を行なっています。目の前の課題だけではなくて、課題設定の背景やそれらを取り巻く環境なども含めてトータルで考えるような思考方法や、メタ目線で考えるというようなことを、美大じゃなくてもいろんな教育の現場でやってくべきだなと思っているんです。現実の中では本当にいろんな、それこそ正解が分からないような課題がありこれらを解決していく必要がありますが、そうしたスキルを、正解のないアートの現場で鍛えていく、といった形で獲得する方法もあるでしょう。アルスコーレでは山口中心市街地を活動の場に設定していますが、これは学びの在り方としては非常に理想的だと考えています。
—— 私は、京都精華大学デザイン学部デジタルクリエイションコース[12]という、当時新設だったコースの出身なんですね。まさに会田さんが仰っているような、プロジェクトマネジメントや、考え方、哲学などを学んでいたように思いました。でも、一方でデザインが学べると思ってこのコースに入学した人には、学習内容が合わなくて辞めていった人もいました。私は生き残って卒業して、こういった仕事をしています。
会田:蔵多さんは、そっちのほうがおもしろかったっていうタイプですね。
—— そうなんです。実は、今回のように自分が表に立ってインタビューをするなんて、今までやったことないんですよ。これまでは裏方というか、ワークショップデザインや、プロジェクト運営で人がどう動くかということを考えていたので…。だからある種これは自分への挑戦だと思って取り組んでいる面もあります。でも、こうした未経験の出来事に立ち向かっているときに、大学での学びが生かされてるなって思うんです。世間的にはいい大学を出て活躍していることのほうが重要視されたりするんですが、会田さんから「美術大学での学びが大切」と仰っていただけて嬉しいですね。
会田:たとえば美術館だって、入場者数が評価の指標になってしまっているから「どうやって入場者数を増やすか」を考えて頑張るしかないとか言うんですよね。でも、なぜ「本当に入場者数が評価の対象になっていいのか」という問いかけをしないのかなって僕は思うんですよ。与えられた基準を鵜呑みにしてしまうのって、思考停止じゃないですか。だったら、もう少し違う基準を考えたり、そもそもから考え直すっていうクセを持つことが、現代では求められていると考えています。
—— 2025年春に開館する鳥取県立美術館の所蔵作品として、アンディー・ウォーホールのブリロボックスが3億円で購入されるというニュースがあって、鳥取だけではなく世間的に話題になっているんですよね(笑)。個人的には、ブリロボックスのことだけが取り沙汰されてしまって、肝心の美術館運営の話やラーニングの話などがブラックボックス化してしまうことが危険だなと思っているんですが、率直に会田さんはブリロボックスの件についてはどう感じられますか?
会田:そうねえ。ブリロボックスについては、まさにものを見るっていうことの哲学を表してますよね。あれをそのままの存在としてみるのであれば、ただの木にペインティングしただけのなんでもないものだと言うことも可能です。でも「なんでもないものじゃん」以上のことが言えるのが、ものを見るっていうことの不思議さなわけですよね。
会田:つまり、ブリロボックスが象徴している背景に何があるのかを読み解くことも「ものを見る」ことだし、そこから奥にたどっていって、じゃあ一体、その大量にあの消費されていく表象というものが、いったい我々に対して、どういう生活の基盤もしくは世界観を与えているのかってことを考えるのも、アートの表象の力なわけですよね。美術にはひとつの作品を起点にしていろんなことが話せる豊かさがあるというのが前提だと思います。
「ブリロボックスには豊かさなんてない。あれはただの箱だ」という仮説を立てたとしましょう。するとこれは、例えば、戦争っていう事象に対して、世界のパワーバランスや支配という歴史を全部抜きにして「あれはただの殺戮だ」というふうにしか見えてないのと同じですから。そうした大ざっぱな捉えかたではむしろ平和が遠のくことだってあるかも知れない、というのが僕の立場ですね。事実というのは非常に複雑で、ひとつの事実に対して様々な文脈があって、読み解きや解釈っていうのはいくらでもできるようになっていますからね。その解釈についての議論を突き詰めていくっていうプロセスっていうのは、美術をみることとかなり相似形なわけですよね。そういう話ができることが、文化の豊かさなんじゃないかなと思います。
—— 鳥取県立美術館には「美術を通じた学び」を支援するために「アート・ラーニング・ラボ」というラーニングセンター機能ができる予定です。そのメインコンテンツが、小学校3・4年生に対する対話型鑑賞を銘打っているのですが、私自身、結構懐疑的なところがあるんです。
対話型鑑賞を取り入れていくべきということはわかるのですが、それが果たして小学校3・4年生を対象にするだけでいいのかなって疑問に思っていて…。
会田:さっきの「ブリロボックスをどう見るか」っていう議論には抽象的な思考が必要なんですが、これって小学4年生以上じゃないとできないんですよ。なぜかというと、小学4年生っていうのは10歳の壁って言われる抽象思考の爆発が起きる段階なんですね。だから、僕としては小学5・6年生で対話型鑑賞の授業をするのがおすすめかなって思います。むしろ、小学3・4年生だと早すぎるなっていうのが所感ですね。それは脳の発達の観点から言ってそうなんです。さらに小学1・2年生だと対話型鑑賞ってあんまり成り立たなくって、ただ見えているもの、第一印象だけで話をしていくしかないんですよ。「こう見えたとしよう、じゃあもう少し考えを深めるとどうかな?」という仮説を積み重ねていく議論はしづらいですね。どうしても目に見えてるものから離れられないっていうか。見えてるものを象徴的に捉えることができないから、結構難しいんじゃないかと思いますね。もちろん早い子は小学2年生くらいからでもできますけどね。
—— わかりました。これは美術館側に伝えていきます!