対話型鑑賞から「関係の造形」へ

大阪成蹊短期大学 幼児教育学科 北野諒さん

大阪成蹊短期大学で講師を務める北野諒さん。北野さんは幼児の造形や表現について研究するほか、対話型鑑賞ファシリテーターとしての経験も重ねてこられました。近年は「関係の造形」というキーワードで活動を展開しているという北野さんに、これまで行ってきた実践や、美術館に求める在り方についてお話を聞きました。(2023.04から京都文教大学 こども教育学部へ異動。インタビュー実施日の状況でお話をお聞きしています。)

聞き手:蔵多優美/
テキスト・写真:木谷あかり

インタビュー実施日:2022.10.14

記事公開日:2023.02.15

対話型鑑賞と自分の作品制作が
地続きになっていた
対話型鑑賞と自分の作品制作が
地続きになっていた
対話型鑑賞と
自分の作品制作が
地続きになっていた

─── 北野さんは元々、国内で対話型鑑賞プログラムを推進する京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)アート・コミュニケーション研究センター[1]の研究員をされており、過去には作家としても活動しておられたとお聞きしました。対話型鑑賞のファシリテーターをされていたり、教育者の立場であったり、鑑賞というものに対して幅広い知見があるんじゃないかと思って。現在の幼児教育研究に行くまでの過程も含めて、是非お話を伺ってみたいです。

北野:ありがとうございます。作品をつくっていた頃の話からいきますと、サウンドアーティストの藤本由紀夫(ふじもと・ゆきお)[2]さんにすごく影響を受けていて、その方がちょうど京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)の大学院で教えておられたので、弟子入りするようなつもりで進学しました。藤本さんは、ゼロからつくるというよりも、そのへんにある既存のものを、組み替えたり、再解釈したりして作品をつくる人なんですね。例えば、パイプを耳にあてると周りの環境音がシュゴゴゴゴーッってすごく反響して聴こえるとか、身の回りのものを使って視点や感覚のちょっとした変化を表現されています。

北野:僕も、自分で何かガリガリつくるより、そのへんのものを少しいじって、見方や考え方、感じ方を変えるような作品をつくっていました。そんな感じで大学院で制作していたんですけど、たまたま同じ学内にあるアートプロデュース学科の福のり子[3]先生の授業を受ける機会があって、その時にはじめて対話型鑑賞を経験したんです。レポートを書いて提出したら、後日、福先生から「興味あったら対話型鑑賞のプロジェクトに参加せえへんか」みたいな感じで声をかけてもらったんですね。そこから作品をつくりつつ、対話型鑑賞の授業に顔を出したり、学外でアート・コミュニケーション研究センターがやっている対話型鑑賞のプロジェクトに参加したりしていました。
自分が作品をつくっている時の、周囲の物事から新しい見方を引き出していくプロセスと、鑑賞して対話しながら意味を編み出していくことが、すごく感覚が似ていたというか、地続きになっていたので…まあ、ハマったんですよね。そういった経緯や関係もあって、大学院修了後の2011年からアート・コミュニケーション研究センターの研究員として勤務することになりました。

─── そういう流れだったんですね。

北野:はい。アート・コミュニケーション研究センターでは学内における対話型鑑賞の授業のサポートもするんですが、基本はアウトリーチ[4]機関なので、学外の施設と連携して、さまざまなオーダーに応えて活動をしていました。学校や美術館、博物館、地域芸術祭など、いろんなフィールドでワークショップをつくったり、対話型鑑賞をやっていく間に、作品制作でやりたかったことと変わらなくなってきたので、自分の作品を発表することはほとんどしなくなっちゃって。途中から完全にそっちの方に移っていった…という感じですね。

─── 大学院へ行かれる前は、和歌山大学教育学部で美術教育を専攻されていたとお聞きしました。

北野:そうですね、さらに前提から振り返って言うと、母親が中学校の美術の教師を中途退職してから、自宅で絵画教室をずっとやっているんです。父も学習塾をやっているので、自分の実家が「絵画教室」と「塾」という、ヘンテコな環境で育ったんですね。アートと学びの場がいっしょくたになったような雰囲気というか。ただ、自分自身は特に美術が好きなわけでもなく、高校時代はバンド活動に入れ込んでいたので(笑)、進路のイメージ自体がフラフラしていたんですが…やはりそういう環境の影響もあり、和歌山大学教育学部の生涯学習課程に進学することになりました。

北野:当時の生涯学習課程では、入学後に専攻を選択できたんです。で、美術教育の専攻に入ってみると、ある種の緩さを許容する雰囲気があって、たとえばそのころは制作室を24時間いつでも使えるような状況でした。自分の育ってきた環境とも似ていて、すごく合ってたんですよね。「アーティストになりたい!」「教員になりたい!」とかで大学に入ったわけじゃなく、無軌道な学生だったんですが(笑)、自分のやりたいことを何でもいろいろ実験させてもらえて、それが楽しかったんですね。
あとは、美術教育学の永守基樹(ながもり・もとき)[5]先生がおられて、学界のなかでも先鋭的な理論家の方で、授業がまあ難しくてよく分からなかったんですが(笑)、分からないなりに刺激的でおもしろかったんです。現代アートにも永守先生の授業を通して触れるようになり、徐々に「アート」ということの認識も変わってきて「あれ、これはおもしろいのでは?」となってきた、という感じですかね。藤本由紀夫さんのことも、最初は永守先生を通して知りました。
そういう背景が学部生のときにあり、さっきお話した院生での経験を経て、アート・コミュニケーション研究センターで対話型鑑賞の研究と実践を始めました。そこから6~7年くらいやってたことになるのかな。で、制作することと、ワークショップを開発して実践することの境目がなくなっていった、とさきほど言いましたが、やっているうちに「でもそれってどういうことなのかな?」とあらためて考えるようになりまして。おそらく自分がやろうとしていることは、体系的に対話型鑑賞を実践することとは少しズレているのではないか? 制作の経験はそこでどう消化されていったんだろう? とか思い悩むわけです。
そんなわけで、いったん「対話型鑑賞」という枠を外して考え直してみたいな、と思い、2018年から大阪成蹊短期大学に着任しました。幼児の造形教育の分野に進んだのは、偶然の作用もあったのですが、自分の抱えている問いとバッチリはまりそうな感覚があったというか。どういうことかと言うと、幼児と関わるとなると、もういちばん原初の状態から考え直さざるをえないわけです(笑)。描くってどういうことだろうか、とか、作るってどういうことだろうか、とか。「対話」ということについても、あらためて幼児の世界から組み立て直すことになりました。

  1. [1]2009年4月に設立されたアートの可能性を多角的に探る研究活動を担う機関。対話型鑑賞プログラムACOP/エイコップ(Art Communication Project)の研究・実践を中心に、全国の美術館、教育機関、企業など多様なフィールドで活動を行なっている。(引用・参照:https://www.acop.jp/
  2. [2]1950年名古屋市生まれ、大阪市在住。「音」を「かたち」に捉えたサウンド・オブジェを中心に、人間の知覚を喚起する作品の数々を発表する。自身の作品を通して発見されうる外界の新たな認識手段を、鑑賞者それぞれの感覚へ委ねるという藤本作品に共通するその姿勢は、作品そのものから鑑賞者を巻き込んだ空間へと波及していく。(引用・参照:https://shugoarts.com/library/yukio-fujimoto/
  3. [3]専門領域は鑑賞教育学、美術館学、現代写真、キュレトリアル。1991年、ニューヨーク近代美術館で研修員として勤務し、対話型鑑賞と出会う。2004年、京都造形芸術大学(現京都芸術大学)教授に就任後、日本の大学で初めて、対話型鑑賞を年間授業に取り入れたACOPを開始する。鑑賞者の育成及び作品と鑑賞者をつなぐファシリテイターの養成を目的とした講座やワークショップを多数開催。90年代はじめより、インディペンデント・キュレイターとしても活躍し、主に現代写真の展覧会を世界各国の美術館で開催する。(引用・参照:https://www.kyoto-art.ac.jp/info/teacher/detail.php?memberId=03032
  4. [4]「手を伸ばすこと」を意味する英語から派生した言葉で、公的機関や文化施設などによる地域への出張サービスのことを指す。
  5. [5]美術教育学者。現代のメディア環境における基礎造形教育の再考、現代アートの状況をふまえた絵画教育の再生など、多数の研究プロジェクトを展開する。1991〜2019年まで和歌山大学教育学部勤務。https://nrid.nii.ac.jp/ja/nrid/1000040164470/
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幼児を対象とした対話型鑑賞の可能性 幼児を対象とした
対話型鑑賞の可能性
幼児を対象とした
対話型鑑賞の可能性

—— なるほど。先日、北海道で「美術による学び研究会」[6]の実践を聞いてきたんですけど、幼、小、中、高と全部網羅されていて、北海道の幼稚園で、幼児ならではの絵の描き方や自由度を見せていただきました。私自身、保育園に通っていたんですけど、いわゆる「コンクールに出すような絵を描きなさい」みたいな指導をされていて「絵を描く時間は好きだけど、ちょっと苦手かもしれない」みたいな葛藤があったんです。なので、こんなのびのび描いたらそりゃあ楽しいよな、ということを思い出していました。

北野:もちろん過度に「無垢な子ども」が神格化されるとまずいわけですが、表現することのプリミティブな驚きとか喜びみたいなものって、たしかに子どもの絵から感じられるときがありますよね。ちなみに、「対話型鑑賞の枠を外して」とは言ったものの、幼児でも対話型鑑賞的な実践はしています(笑)。大阪成蹊短期大学附属こみち幼稚園の課外のアトリエ活動で、年中さんと年長さんを対象に行っています。

—— すごい。幼児の対話型鑑賞って可能なんですね!

北野:実践事例自体は、チラホラみますよ。ただ「どこからそう思う?」みたいなことはあんまり聞けなくて。聞いたところで首を傾げられるみたいな(笑)。

—— そういう時はどういう聞き方をするんですか?ファシリテーションのやり方が気になりました。

北野:とりあえず見てもらって、「何があるかな?」とか「思ったことがあったらなんでも言ってね」くらいの感じですね。まずは見たこと・感じたことを言葉で表現すること自体が大きな一歩なので。そうやって年中・年長児と鑑賞を始めると、すごく客観的なことを言うのでおもしろいんです。「間違い探し」みたいな感じで、ここに〇〇がある、とか事実ベースのことをよく言ってくれて、物語的な解釈が出てくるのは少し後のほうなんです。もちろん観察自体が主観的な思い込みに基づいている場合もあるので、自分の見えたように言ってるんだけど、それだけで「その子にはこう見えてるんだな」という新しい見方が生まれている手応えがあるというか。「見たものを言葉にする」というただそれだけで何事かが起きる、最初の瞬間を目撃している感じですね。

—— おもしろいですね。園児たちは何人ぐらい参加しているんですか?

北野:50人ぐらいです。

—— えっ、すごい!でも、そんな人数で可能なんですか?

北野:あの、だからこれは、対話型鑑賞の条件としてはダメなんですよ(笑)。

—— (笑)。

北野:アトリエの環境上しょうがないんです。だから結果的に「対話型鑑賞の枠から外れている」とも言える(笑)。でも、最初の導入で園児たちに「今からこうやって、見て、しゃべってくから、お話したいことがある人は手を挙げてね」「順番に聞いてくから、しっかり友達の言ってることも聞いてね」と伝えると、けっこう聞き合ってくれるんですよね。4~5歳児が同じものを集中を切らさず見続けること、順番を待ちながら他の人の話を聞くことって、かなり難しいんですが、20分ぐらいやってくれるんですよ。

—— 幼児対象の対話型鑑賞は、未知の領域なので、お話興味深いです…!

北野:で、これまた対話型鑑賞の体系からは外れますが、鑑賞したあとにプリントアウトしたものを手渡して、「みんなまだ話しきれへんかったと思うから、これ見ておしゃべりしながら絵を描いていこうか」と言って、模写してもらうんです。「別にそっくりに描かんでもいいよ」「描きたいもんを描いてくれたらいいからね」みたいに促すと、同じ絵を見ているはずなのに、それぞれがまったく違う絵を描くんです。

子どもたちが対話型鑑賞をした後に模写した作品だよ

—— おもしろいですね!

北野:子どもって、客観的な大きさを再現しようとするよりも、自分の気になったものを大きく描く、という特性があるので、模写を見ると「どこがみたかったのか」というのがすごくよくわかるんです。例えば、画中の背景にある小さな橋を大きく描いていたりすると、「ああ、そこか!」みたいな。細部をよく観察していて、「自分はここをこういうふうに見たぞ」というものを描いてくれる。

—— みんな、上手く描かれていますね。

北野:子どもの絵に「上手い下手」を言うと各方面からお叱りが飛んでくるわけですが(笑)、思わず「上手い」と言いたくなる絵もありますよね。これは幼児の描画の発達としてもすごくおもしろい話なんです。基本「見て描く」って、発達段階的にあんまり幼児期には向かないよね、と言われているんですけど、立体物ではなく平面を見て描く場合は複雑なものでも案外できることがわかってくる。描き方の獲得にもつながっていると言えそうです。あと、対話型鑑賞をする中で話題にあがったものを描いてくれる頻度が高いこともわかってきました。なので、言葉を使ってしっかり見てから模写をすると、表現にもバリエーションが出てきやすいのかなあ、と思います。

—— 自分で発言した言葉じゃなくても、友達の言ったことが印象に残って…自分もこれ描こう、みたいな。

北野:そうなんですよ。「模写」というと臨画[7]教育みたいな活動だと思われがちなんですが、「何らかの作品を鑑賞して、そこから自分なりの見方を表現する」という意味では、模写自体もすごくクリエイティブな活動だと思います。あと、元になった作品があると、「こんなん描いたん!」「これがこうなったん?」みたいな感じで、子どもの絵からさらに鑑賞や対話のきっかけが生まれやすくなるんですよ。

—— ほんと、人によって着目が違うっていうか、人に着目してるのもあれば……こっちとか、建物ですよね?

北野:これはね…なんだろうなあ(笑)?

北野:色を再現しようとしてる子もいれば、自分だったらこの色にしたいとリメイクしている子もいる。しっかり見て、かたちのバランスなんかもすごく気にして描いている子もいれば、気になったところをパパッと見つけてコラージュするみたいに描く子もいる。描き方がわからなくても試行錯誤して、じっと見ながら輪郭線を追ってく、という自分なりの描き方を発明してくれた子もいます。対話しながらだと、絵としての完成度ではない「それを通してどんな思考をしたのか」「その子なりにどういうふうに表現したのか」というのが見えやすくなりますね。

—— 指導というより、それぞれが持ってるものを引き出す、というような感じでしょうか。

北野:そうですね。ただ、なんでも自由にやっていいというわけではなくて、元になる作品はしっかりと鑑賞して、そのうえで表現する。そのへんのバランスが大事ですね。50人の4、5才児とこれをやるのは、大変鍛えられました(笑)。

—— ははは(笑)。 そうですよね。

北野:年に数回なので、そんなにたくさんやっているわけじゃないんですけど、この活動は5年ほど続けています。

  1. [6]美術による学びは美術の専門家だけが考えるものではなく、美術や文化を通しての思考と対話に関わる教育学、美術、倫理学、哲学、心理学、社会学などの幅広い分野からの人々が集い、幼児から大人の、現在から将来の美術による学びのあり方を議論できる場となることを目指して設立された会。蔵多は2022年10月に行われた北海道大会に参加しリサーチを行った。 https://www.art.gr.jp/
  2. [7]図画の学習法の一つ。手本の絵を忠実に模写することによって学習すること。また、そのようにして描かれた絵。

「関係の造形」とは

—— 少し話題を変えます。現代美術の対話型鑑賞は作品の背景なども理解したうえでやっていかないと成立しないこともあると思うんですが、そういったところで北野さんはこう実施したという知見のようなものがあればお聞きしたいです。

北野:そうですね。「現代美術」という定義付けがむずかしいんですが、大まかな傾向としては、背景にいろいろな文脈があったり、前提となる条件や知識が必要だったり、作品だけを単体で見ても解釈しきれない部分があるのは確かだと思うんですよね。アート・コミュニケーション研究センターでファシリテーションをしていた時も、作中の要素をしっかり読み解くことで鑑賞が可能な作品を最初の方に入れていて、コンセプチュアルで哲学的な議論までいくような作品は、鑑賞者が熟達してきた段階で用いることが多かったです。現代美術の鑑賞では、作品の背景や文脈を単なる「知識」として提供するのではなく、解釈を深めるためにどうやって織り込んでいくかも必要になってくると思います。あと、作品によっては、映像になっていたり、いろんなものを組み合わせて空間全体が作品になっていたり、作品自体がじっとしてくれないというか(笑)、そういう物理的なむずかしさもあったりしますよね。ちなみに、蔵多さんが対話型鑑賞をする時は、現代の作家の作品を扱うことが多いんですか?

—— そうですね。私は知り合いのアーティストが描いた絵画作品を用いて、作品と鑑賞者の関係で終わらせないように、作家自身がちょっと離れて聞けるような場所で対話型鑑賞をしています。作家としても、「自分の作品は鑑賞者にどう見えてるのか」と知れる場をつくるような、場づくりとして対話型鑑賞をしたいな、というニュアンスが大きいです。ものの見方だけじゃなく、コミュニケーションが深まるような場所のセッティングとして、対話型鑑賞がすごくおもしろいな、と思っているタイプですかね。

北野:なるほど。僕は自分の作品で学生たちが対話型鑑賞しているのを横で聞くのが最初だったので、まさに今おっしゃっていただいたようなシチュエーションで対話型鑑賞と出会いました。個人的には「こういうふうに再解釈してくれるんや」ってすごくおもしろかったんですけど、鑑賞者にとっては作者の存在が権威的にもなり得るので、そこの関係性をどう取り持っていくかがむずかしいかもしれないですね。

—— はい。場づくりのむずかしさがあるな、と思うんです。

北野:ああ、でも「場づくり」というのはひとつのキーワードになりそうですね。幼児教育の分野に移ってきてからは、あまり「対話型鑑賞」という言葉を使っていないんですよ。それこそ「場づくり」と言われるような、対話的な状況全体の構成を考える場合は「関係の造形」という言葉を使っています。さっきの模写の事例だと、描くことが作品や他者との対話の方法にもなっていますし、そもそも人数やカリキュラムの条件を考えると「対話型鑑賞です」とも言い切れない。場づくり、関係づくり、関係の造形、みたいな別の言い方や枠組みが適しているのかな、と。現代美術の鑑賞の場合も、対話が生まれる環境そのものをどう設計するか、ということが重要になってくるかもしれませんね。ただそうなると、こんどは幅が広すぎて抽象的になってしまうのが問題です。「関係の造形」という言葉をもとに具体的にどんな実践を行っているのか、もうひとつ紹介してみましょうか。

—— 廃材ですか?

北野:はい。元ネタは「ビーチコーミング」という遊びで、砂浜で自分の好きなものを集めてくる、っていうやつですね。そういうことって、子どもがめっちゃ好きなんですよね。子どもって公園にいくと、十中八九、石か木の枝を拾ってくると思うんですが(笑)。自分なりに周囲の状況や環境を感じ取って、「これすごい!」みたいな感じで持ってくるわけじゃないですか。何らかの対象をもとに「鑑賞」したり「対話」したりするという関係性の芽生えとしては、すごくおもしろいと思ったんです。で、ビーチコーミングからの発展で、別にビーチじゃなくてもいいんじゃないかということで「そのへんに落ちてるものを拾って遊ぶ」というワークショップをやっています(笑)。

—— (笑)。

北野:小学生対象のワークショップとしてやったり、大学の授業でもやったりしています。当日はそのへんを歩いて拾いに行って、お互いのおすすめオブジェクトを紹介しあう、みたいな。

—— これはいいでしょ、みたいなね。

北野:幼児向けの場合だと、あらかじめ拾って集めてきたものを渡して「不揃いの積み木」みたいなかたちで遊んでもらうこともあります。ものを介した関係性がどうやってできるのか、遊びながら検証している感じです。

北野:このワークショップもすごくおもしろくて、拾ってくるアイテムによって相手の人間性が垣間見えたりする(笑)。あと、そのフィールドがどんな場所なのかによって集まるものに違いが出てきますし、地域や社会の暗部というか、見たくないものを見つけちゃう場合もある。単に綺麗なものを見つけてやりとりするだけ、というより、社会や環境のいろんな状況と接続したり、他の人と繋がっていくひとつのきっかけとしておもしろいと思ったんです。最初は子どもを対象にしてやりはじめたんですけど、大人とやってもおもしろいんですよ。道を歩いていて「おっなんだ?」と気になっても、普段は拾えないじゃないですか。それが「拾っていいよ」ってなると、結構拾ってきてくれる。

—— お話を聞いて、めっちゃやりたい、って思っちゃいました(笑)。ワークショップという枠組みの中で、今この時間はやっていいんだ、みたいな気持ちで取り組めますね。ちなみに、ゴールのようなものはあるんですか?

北野:いろんなパターンがあるんですが、小学生を対象にしてやった時は、お互いに拾ってきたものを紹介しあった後、自分の好きなアイテムをひとつ選んで名前をつけてもらいました。で、準備しておいた箱にグルーガンを使って標本みたいにまとめてもらって、最後にみんなで見るようなかたちにしました。最初から積み木みたいにしてわたす場合は、自由に遊んでもらっていますが、一般的な積み木に比べて最初の驚きというか「何だこれ?」みたいに感じとったり観察したりする時間が長く生まれますね。遊びの内容も積んだり並べたりして形をつくるだけではなく、貝殻を砕いて石灰みたいな粉をつくろうとしている子がいたり、石を「これはお金やねん」と見立てて、他の子が持っているものを買おうとしはじめる子がいたりする(笑)。分類してみたり、物々交換が始まったり、ものづくりだけでなくコトづくりの方にも展開するというか。

—— あははは!良いですね(笑)。大阪という土地柄もあるかもしれないのですが、小学生達の発想の面白さを感じました。

北野:と、まあ、まだきちんと理屈では説明できないんですけど「関係の造形」と言いながらこんなことをやっていますね。これは対話的なワークショップでもあるし、一方でそれこそ自分の作品みたいな感覚もあります。あと、話を戻してつなげると、たとえば自然環境や廃材を用いた作品を制作するアーティストについての、鑑賞活動にもなりうるでしょうね。

「対話型鑑賞」と言うべきかどうか 「対話型鑑賞」と
言うべきかどうか
「対話型鑑賞」と
言うべきかどうか

—— 私は鳥取という、いわゆる「都会」じゃない地域に住んでいるので、地方の芸術祭で対話型鑑賞する時とか、都市部とは若干様子が違うんじゃないかな、と考えてる節があるんですね。そういった中で「地域によってこういうことが違う」というようなことがあれば教えてほしいです。

北野:それは…逆にこちらが聞いてみたいところでもありますね。ステレオタイプではありますけど「大阪だとフランクに踏み込んでも大丈夫だけど、東京だと行きすぎると引かれる」みたいな地域ごとの空気感は確かにあると思うので、距離感の調整が必要にはなってきますよね。鳥取だと、どうなりそうですかね?

—— そもそも、今回のリサーチをはじめた時に「鳥取県で対話型鑑賞を目玉にして大丈夫?」みたいな疑問があったんですよ。鑑賞方法は対話型鑑賞だけじゃないし、それぞれの現場やアートプロジェクトで「誰が何に、どういう実践で取り組んでるのかな?」という現状が聞きたかった。その中で、永江さんという鳥取の高校の先生が「鳥取は無対話型鑑賞がいいかもしれない」とおっしゃっていて、対話までいかなくても、ワークシートでやりとりするだけでも成立するんじゃないかな、と思いました。

北野:なるほど。ワークシートを使って言語化していくのも自己内対話だと思うし、作品との対話もきっと起こっていると思うんですよね。で、それを他の人が読むと「手紙のやりとり」みたいな感じにもなる。それこそさっきのものを拾う遊びも、ものを介した対話なんだと捉えられるかもしれない。「対話」というのも、言語による口頭のやりとりに限られないわけで。そういう意味では「対話型鑑賞」って言わないほうが適している活動もあるかもしれないですね。もちろん体系的な対話型鑑賞のエッセンスは絶対関係はしてくると思うから、それはきちんと学んでいく一方で、それとは「少し違うもの」として様々なタイプの対話的な取り組みを考えていくことも大事なのかな、という気がします。

北野:たとえば、以前、瀬戸内国際芸術祭に関連する研究プロジェクトとして、ワークショップを開発したことがありました。会場のひとつである豊島で、芸術祭の作品と地域の方々はどのような関係を結んでいるのだろうかということで、住民の方に参加者として協力していただいたんです。その時は現地の人と県外の人とでペアになってもらって「豊島らしい風景を写真に撮ってきてください」と言って、撮影は県外の人にやってもらうような仕組みにしました。一度他の人の目線で撮ってもらうことで、「私はここが豊島らしいと思うんやけど」「いや、ちょっと違う」「どこが違うんやろ」みたいに、お互いが目線の違いに気付く。そこから写真を鑑賞して、その人が感じた「豊島らしさ」に一体何が含まれているんだろうと考えていく。そういう、アクションリサーチ型のワークショップですね。で、その結果、「豊島らしい風景」にアート作品が全然写らない、ということになりました(笑)。ただ、写真には入っていないけど、鑑賞中の話としてはよく出てくるんですよ。何というか「気になる隣人」なんですよね。「やたら知り合いがよく遊びにきているから迷惑するときもあるけど、別にそんな遠ざけているわけでもない、ただちょっと絡み方がわからない隣人」みたいな…まあそれは僕の解釈ですが(笑)。そんな感じで写真を撮りながら「地域とアートとの関係性を考え直す」ということをやっていました。

—— うんうん。

北野:あと大事なことは、県外の人が入っていたということ。「地域」という言葉は「対向車線」みたいな概念だと思うんです。どっちからみるかで対向車線と呼ばれる場所は変わるわけで…大阪にいる僕から見たら、鳥取は地域や地方になるんですけど、逆に蔵多さんからしても大阪なんかコテコテの地域性を帯びた場所にみえると思うんですよ。だから外の人がいることで、はじめて「この地域」がみえてくるというか。
えっと、ちょっと話が拡がっちゃいましたが、こういうワークショップも対話型鑑賞のエッセンスがあると言えばそうなんだけど、対話型鑑賞の本体ではないわけです。「対話型鑑賞」という言葉だけが独り歩きしないようには、気をつける必要がありますよね。

コミュニティをつくること、
鑑賞すること、時間をかけること
コミュニティをつくること、
鑑賞すること、
時間をかけること
コミュニティをつくること、
鑑賞すること、
時間をかけること

—— 最後に、今後必要とされる「鑑賞教育」や「美術教育」のあり方について、北野さんのお考えを伺いたいです。

北野:そうですね。美術教育学の建付けの話からいくと、それが学校教育なのか生涯学習なのかによって語り方が変わってきますが、学校教育の文脈では「美術の先生」というコミュニティ自体が先細っていて、どんどん弱体化しているんですよね。美術の時間はどんどん削減される傾向にあるし、教員の採用も無くなって「非常勤の先生しかいません」という学校は本当にたくさんある。「社会に開かれた教育課程」ということが言われていますが、もっと切実な現状として、学校教育の中だけで解決しようしても立ち行かなくなっちゃうと思うんですよね。そういう意味で、鳥取県立美術館への願いとしては、学校教育と一緒に何かやってほしいですね。日本では、民間有志の研究団体が美術の先生のコミュニティや居場所になって、美術教育の研究や実践を引っ張ってきた歴史がありますが、なかなかその気運の再興も望めないですし…。仕組みや制度作り、予算、マンパワー、そもそもみんな忙しすぎて時間が無いなど、いろんな問題はありますが、大学教員も率先して美術館と学校の橋渡しをする研究や実践をしていかないといけないと思っています。

—— ありがとうございます。それで言うと、鳥取県立美術館には教育普及事業として美術ラーニングセンター機能が併設される予定なんです。誰でも入れる余地がある県民立美術館と謳っているのもあって、今回のプロジェクトが何か一石を投じるきっかけになるといいと思います。

北野:「美術館と学校が連携してここまでやれるんだ」みたいな事例がつくれると、全国的にすごく注目を浴びるとは思うんですよね。「学校だけで解決しようと思ってもどうしようもない部分を、他の機関と連携しながらどうやるのか」というのは、美術教育に留まらずに考えていかないといけない問題ですし。

北野:で、状況論とは別に、原理的な根っこのところからも考えて、「鑑賞」という言葉に立ち返ってみたいんですけど…ちなみに、蔵多さん的に「これは鑑賞したなあ!」みたいな感じになるのは、どんな時ですか?

—— なんかもう、立ち止まっちゃった時ですかね。幼い頃から高校の芸術教員をやっている父が鳥取県立博物館を中心にいろんな作品を見る場所へ連れて行ってくれて、「自分勝手に見ていい」と教わっていたので、2人で行ってもそれぞれのペースで鑑賞していたんです。マイペースに鑑賞するので、結構通り過ぎてしまうんですが、その中でピタッと止まってじっくり鑑賞する作品があったりするんですよ。その時に「自分はなんで止まっちゃうんだろう」って、だんだん考えるようになってきて。その作品を見終わった後に「ああ、見たわ」みたいな感覚がやってくるんですよね。だから今は、展覧会をひとつ見て「あーおもしろかった」というよりも、展覧会の中にすごく気になる作品があって、「ああ、これを見れて良かったなあ」と感じる時間が大切かなと思っています。

北野:立ち止まること、時間をかけることって、当然と言えば当然ですけど、キーポイントですよね。個人的には「対象と時間を共にする関係」に入っていく状態が鑑賞なのかな、と思います。ずっと聴いているアーティストや、ずっと見ているコンテンツのように「沼にはまる」じゃないですけど、最初は小骨が引っかかったみたいに立ち止まっちゃって、そこから思いがけず長い時間を一緒に過ごすことになる状態というか。あと、ちょっと飛躍して地域性の話につなげると、「時間のかかる場所が地方」みたいに考えることもできるかな、と思うんです。遠くの地域まで何かを経験しに行くと、移動時間が長いから帰りにどうしても考えちゃうわけです(笑)。「時間を共にする関係に入らざるを得ない場所」という意味では、「地域」と「鑑賞」の相乗効果はあるかもしれない。

—— そうですね。例えば…先日、北海道に行く前、国際芸術祭あいちに行ったんですけど、愛知から北海道へ移動する飛行機の中で「あれなんだったんだろうなぁ」と考えながら移動してたんですよね。
私が京都に住んでいた頃は、関西圏ですぐに移動しやすい環境だったこともあり、例えば大阪で展覧会を見た帰り道に何か考えてたかと思い返すと、実はそこまで深く考えてなかったんです。ひとつの展覧会の中に自分が気に入って「すごく見たなあ」というものがあったら良しとしよう、という感覚が強いというか。東京に行く時も鑑賞ツアー的な感じでずっと回っていたんですけど、それって見たことになってたんだっけ…って、リサーチをするようになって改めて思うようになったんです。「地方の良さ」について焦点を当てて考えると「あれはなんだったんだろう」と、ゆっくり考える時間は大切かもしれない。

北野:「作品を味わう時間をどうデザインするか」ということが鑑賞の肝なのかもしれないですね。そう考えると、実はさっきの美術教育・研究のコミュニティをつくる、という話も同じようなことで、要は「美術教育についてああでもないこうでもないと時間をかけて話したり実験したりできる場所と機会」を、どうセッティングするかということなのかもしれません。鑑賞とは、時間をかけることである。コミュニティとは、人々が長い時間を共にする場所である。当たり前のことしか言っていないような気もしますが(笑)、本質的にはそういうことなのかなと。

—— これは余談になるんですけど、「鳥取県がアンディ・ウォーホルのブリロボックスを3億円で購入した」というニュースが話題になっていて。ここに鑑賞をぶつけていいかわからないけど、個人的にはコレクションの購入金額ばかり注目されて教育普及事業が周知されないのは、すごくまずいことではないかと思っていて。だから、今回のインタビュープロジェクトの取り組みをひとつのネタとしてどうやって教育的に使っていくか、対話型鑑賞のプログラム開発とかもできればおもしろいのにな、と考えています。

北野:そうですね。時間の話で行くと、瞬間的に炎上する話題として消費されるのがいちばんまずいわけなので、落ち着いたころに、あえて鑑賞のきっかけとしてブリロボックスを扱ってもいいのかもしれませんね。

—— 是非チャレンジしてみたいですね!

北野さん、ありがとうございました◎
幼児を対象とした対話型鑑賞の可能性

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