鳥取県立米子南高等学校 永江靖幸さん
鳥取県立米子南高等学校で教頭を務める永江靖幸さん。永江さんは芸術科の美術教員でありながら、彫刻家としても精力的に活動されています。「鑑賞教育には苦手意識がある」という永江さんに、「みる」ことの大切さや理想とする美術教育のかたちについてお話を聞きました。(2023.04から鳥取県立境高等学校へ異動。インタビュー実施日の状況でお話をお聞きしています。)
聞き手:蔵多優美/
テキスト・写真:木谷あかり
インタビュー実施日:2022.09.21
記事公開日:2022.11.11
─── 最初に、永江さんが彫刻を始めた経緯や実践されている授業についてお聞きしたいです。
永江:「教員になりたい」という考えが最初からあり、鳥取大学教育学部美術課程[1]で、小、中、高の教員免許をとりました。当時は絵画で頑張ろうと思っていましたが、入った途端に挫折して、同級生の影響で彫刻をはじめました。それで木を彫り始めたら、これがまた楽しくて、のめりこんでしまって。そこからずっと木彫を続けているんですが、負けず嫌い根性がひとつの原動力かもしれません。「とにかく人よりは良く見られたい!」とか、そういう俗物根性で続けてきたので。
─── なるほど。
永江:そうやって続けているうちに、最初は箸にも棒にも掛からなかったような作品だったのが、少しずつ認められるようになって、県展でも賞をもらえたりして。欲があるので有頂天になって、二紀展に出すようになって、2004年には文化庁の国内研究員に推薦してもらいました。そうこうしているうちに、今度は教育委員会から「国外研究員の募集に出してみないか」みたいな連絡が来て、アメリカで80日間の滞在制作をしました。
─── 文化庁や国外での活動は、教職を続けながら取り組んでおられたのでしょうか?
永江:はい。アメリカに行った時は教え子の何人かに声をかけて、「短期だけど非常勤講師をやってみる」という人がいたので無事行けました。冷や冷やでした(笑)。
永江:教育現場としては、大学を卒業してから1年間、境高校の講師を経て、中学校の教員として採用されました。1年間、高校で講師をしていたこともあり、中学校の美術は「教育全般」に重きをおき、高校では美術の「専門性」が活かせる、というような考えを持ちました。異なる現場を通して、比較ができちゃったんです。「専門性」を通した授業を展開したい気持ちが膨らみ、数年後に異動希望が通り、米子西高校に赴任しました。
─── なるほど。永江さんは2013年度から2021年度まで米子西高校でエキスパート教員[2]をされていた、とお聞きしました。また、芸術三教科、美術・音楽・書道[3]とコラボレーションした授業を実践されていたとも。当時、美術の授業やコラボ授業でどのような実践をされていたのかお伺いしたいです。
永江:はい。米子西高校で9年、境高校で6年の後に米子西高校に帰ってきました。その際、芸術三教科の教員で話をしていたら「音楽がバンド演奏をする中で美術が絵を描き、書道が字を書いて、音楽演奏の背景をつくる授業を行った」と聞きました。美術の前任の先生からされていたようですが、私はそれをしたくなくって。
─── (笑)。
永江:そうしたら、書道の先生から「三教科で授業をやるというのは継続したい」ということを言われて、じゃあ何だったらできるのか、ということで、音楽を選択した生徒が歌った歌の歌詞とか、メロディーとかハーモニーとか、情景ですかね。それを聞いた美術選択の生徒が絵に描いて、出来上がったものにさらに書道選択の生徒が歌詞の一部を添える、というかたちで始まりました。1年目は、個人がそれぞれ半紙に絵を描いていました。具象・抽象を問わず、合唱曲を聴いた中で一番気に入ったフレーズを絵に描いて、書道選択の生徒が自分に合った絵を選び、そこに文字を入れてもらう。そうして出来上がったものを、最後は貼り出して鑑賞しよう、というものでした。
─── なるほど。
永江:でも、書道教員から「1人1枚ではない形で」「もっと大きな紙に書かせては」「グループで実施したい」と意見を言われたので、美術と書道でそれぞれ3、4人のグループを6班つくって実施することに。ベニヤ板1枚分ぐらいの紙に美術選択の生徒が絵を描き、書道選択の生徒には一番気に入った文字を書いてもらいました。でも、美術が描く絵と書道が書きたい文字がなかなか一致しなかったので、翌年は、音楽を聴いた後「どういう文字が書きたいのか」「どういう絵を描きたいのか」というのをディスカッションする時間を取りました。美術と書道のグループで集まって、「こんな絵を描きたい」と色鉛筆で下絵を描き、そこに文字を入れてみて、「じゃあ完成はこうだね。美術さんお願いね。」という感じで話し合ってもらい、絵を描いた上から、それに合った文字を書く、というのをやったんです。それがおそらく、このコラボの完成形だったのかな。
─── うんうん。
永江:事前に「音楽選択の生徒が何を歌うのか」というのを、音楽の先生から教えてもらって、歌詞カードをつくり、それをもとに、歌声を聴いて……。せっかく「音・美・書」揃っているので、歌を聴いて終わりじゃなくって、何かひとつ一緒に誰でも知っているような歌を歌って、音楽の鑑賞は終わり。それからグループでディスカッションをして、完成。最後は完成した作品を「音・美・書」の全員がひとつの教室に集まって鑑賞しました。「どこがどういうふうに好きなのか」「こんなところが気に入った」、あるいは「こうしたほうがもっと良かったんじゃないか」みたいなことを発言し合って……というような感じですね。
─── そういった取り組みをやってみて、永江さんの心境の変化だったり、生徒の皆さんの反応というのはどのような感じでしたか?
永江:うーん。生徒の反応というよりは、教員のほうが勉強になったかな、という気はします。完成作を鑑賞する時、「音・美・書」それぞれの教員が順番に司会をして、生徒から感想を聞き出す係になるんです。教員側としては、「どう質問を投げかけたら、生徒から具体的な言葉が返ってくるのか」というのを学ぶ機会なんですね。単純に「この作品についてどうですか?」と尋ねて、「はい、良いと思います」で終わり。じゃなくて「こういうところがこんなふうにできていたので、これはすごいと思います」みたいな、何かもっと深く返してくれるような投げかけ方。そういった面で、自分たちの方が勉強しているような感じでした。
永江:「鑑賞」に限って言うと、やっぱり自分の中で「鑑賞授業」に対しての苦手意識があるんです。過去に自分自身が鑑賞教育の授業を受けた時も、現在自分で授業をする時も。自分が受けた時に苦手意識があるから、授業でするのも苦手なんでしょうね。何故って、答えを求められている気しかしないんですよ。間違ったことを言ったとしても訂正されることはないけれど、暗に「そういう答えを求めてるんじゃないんだよね」という反応がある。たとえば、良いことを言う生徒に対しては「そうだよね、そういうふうに見えるよね」って食いつくじゃないですか。自分が鑑賞授業を受けた時にも同じようなことがあって、そこから「自分の意見は違うんだ」という気持ちがずっとあるんです。もしかしたら、そう思うのは自分だけじゃないかもしれない。さらには「見たものを言葉にしなければ鑑賞じゃないのか」っていうところもある。「どういうふうに見て、どういうふうに理解しているのか」というのは、言葉にしないと伝わらないけれど、それを言うことで「あ、違うんだ」と思われてしまったら、その子は二度と鑑賞で声を発することはない。じゃあ、そうならないためにはどうしたらいいんだろうか、という。「むずかしさ」というか、「疑問」というか。
─── うーん。
永江:とはいえ、クラスの中で発言するのはむずかしくても、少人数であれば自由に発言できるかもしれない。言葉として発するのが苦手でも、ペーパーに書くんだったら、書くかもしれない。と考えていることもあり、まず生徒自身が感じたことを書かせて、それをグループ内で読み合わせてみたり、グループ内で「あ、この人の考えはおもしろいな」とかっていうのがあったら、発表するように促してみたりとか。そうしていくうちに、自分の感じ方が他の人と違っていても、「ああ、そういう感じ方もあるんだ」と生徒が捉えてくれるのではないかと。私自身、鑑賞の授業はやりたいんだけれども、そのやり方に対してはむずかしさを感じますね。
永江:以前、京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)で対話型鑑賞の教員向けレクチャーを受講したんですが、そこでやっていたのをちょっと真似して、実践に取り入れたこともありました。最初に「誰でも知っている絵を映します」と言って、「モナ・リザ」の絵を見せる。でも、首から上しか映っていない。そこで、「さあ、みなさん。どっちの手が上でしょうか」と。
─── ドキッ!とするやつですね(笑)。
永江:いわゆる、クイズみたいなかたちですよね。「誰でも知っているはずなのに、記憶って曖昧だよね」みたいなところから、やっぱり「みる」ってすごくむずかしいよね、と説明するんです。今度は、フェルメールの「牛乳を注ぐ女」。「1分間あげるから、隅から隅までじーっくり見てみようか」と言って、1分後に「服の色、なんだった?」「釘は何個あった?」「窓に何か、変なとこなかった?」と質問するんです。そうすると「あれ?」となってくる。そこで、「ものをみる」って漠然と見がちだよね、隅から隅まで見るってあんまりないよね、という話をして、「友達の作品も同じで、もしかしたら何か隠されているかもしれない。今度はじゃあ、友達の作品を見ようか」というようなかたちで、鑑賞の授業をやりました。ただ、ひとつの鑑賞の方法だけれども、「すべての鑑賞」ではないですよね。ひとつの「ものをみる」っていう、かたちの鑑賞かな。だからもう、私は山口や島根、京都など、鑑賞教育についてレクチャーをするといったら、それに行くんです。自分が苦手だから「他の先生は何しているんだろう?」という感じで。
─── 「鑑賞授業に苦手意識を持っている」とおっしゃられていましたが、永江さんは「彫刻作品を鑑賞する」というテーマで2021年度に公開授業をされていた[4]と思います。当時はどのように取り組んでおられたんでしょうか。
永江:あの授業は「抽象彫刻」というタイトルにして、自分の作品を見せて「どういうふうに見るかな?」と質問を投げかけるようなかたちでおこないました。まず、ヘンリー・ムーア[5]やコンスタンティン・ブランクーシ[6]の作品を紹介して、「ヘンリー・ムーアは若干、具象的なところが見受けられるから比較的わかりやすい」「ブランクーシはもう、なんだろう?みたいな感じの抽象になってくるけれど、感じたことを自由に表現してもらえればいい」という話を前段に持ってきて、そのあとに私の彫刻作品を出しました。生徒には、感じるところをいろいろシートに書いてもらって、グループで話をしたあと、作品に対して思い思いのタイトルをつけてもらいました。生徒は自由にタイトルをつけますよね。で、実は、この作品はこういうタイトルで、自分の想いはこういうのでつくったんだよ、と伝えると「へぇ~」というリアクションがね。
─── なるほど、素敵ですね。
永江:抽象作品だと、作り手と受け手の意図が一致しないこともありますよね。でも、それは見る人が見たように感じてくれればいいと思うんです。鑑賞する人の見方によっては、逆に「あっ、そういうふうに見ることもできるんだ」って新しい発見をもらうこともあったりして、作者としては面白いと思いました。
─── 対話型鑑賞だと「作者不在の方が発言しやすい」という場合もありますよね。ちなみに、生徒さんは初めから永江さんの作品だと知っていたんでしょうか。
永江:ええ。「これは私の作品だけど」と言って、各グループに配布しました。好き勝手に話して良い、としたので、わざとへんちくりんなことを言う生徒もいました。
─── なるほど。永江さんと生徒さん達との関係性がありますもんね(笑)。
─── 少し質問が前後してしまいますが、作り手側の意見として、「作家として考える鑑賞」というか「作品を見られること」について、何かお考えになっていることはありますか?
永江:そうですね。「どう見てほしい」というのはまったく無くて、自由に見てもらえればいいと思います。グループ展をした時も、絵画はみんな見るんですけど、自分の作品の前になるとスーッと通り抜けるんですよ。彫刻、特に「抽象彫刻」に対しての苦手意識があるのでは、というか。彫刻は360度見ることができるので、いろんな方向から見てほしいですね。裏を見たら、おもしろい仕掛けが隠れているかもしれないですよ。
永江:以前、栃木県で開催された那須野が原国際彫刻シンポジウムin大田原2000[7]に参加しましたが、普通の展覧会とは違う目線というか、展示されているだけの作品には関心がないような人も、制作過程を間近にすると「ああ、彫刻ってこうやってできるんだ」と興味を持ってくれたりして、そういうおもしろさがあるのかな、と思います。完成した石の作品はずっと展示されているので、普段は特に意識していなくても「彫刻がある」という風景があることで、少しずつでも関心が高まるんじゃないかな。
─── ちなみに、1年間の授業の中で鑑賞にはどれぐらい取り組まれているんでしょうか。
永江:そうですね。授業では「視点をどういうふうに捉えるのか」という部分の理解を深めるために鑑賞の時間を設けていますが、それでも1コマ程度、たとえば5、6コマ連続して作家について調べたりという時間は取れてないですね。学習指導要領の中で考えると、自分が生徒達にさせたい授業を年間の中で考えると、本当にもうギリギリなんですよね。でも、高校に来て芸術三教科の中でわざわざ美術を選択してくれる生徒には、中学校ではやったことのない美術体験をさせたい、という気持ちがあります。だから「こんなのを描くのは最初で最後だよ」と言いながら、以前は必ず石膏デッサンをしていました。
─── おお、羨ましいです。余談ですが、私、美大受験の勉強の中で一番石膏デッサンが好きだったので(笑)。永江さん、ちなみに高校の芸術授業なんですが、いわゆる美術Ⅰとか、美術Ⅱ、Ⅲがあると思います。米子西高校時代は、いろんな授業があったんですか?
永江:そうですね。米子西高校の時には、美術Ⅰと美術Ⅱ。それから、美術Ⅲではなく「発展美術」とか、そういうかたちで。学校設定科目とすると、美術Ⅰ、Ⅱを取っていなくても、誰でも取れる授業になるんですよ。1,2年生は音楽や書道を選択していたけど、将来保育士になりたいから絵を学びたい生徒や美大受験を目指す生徒が授業に来てくれたり。それに加えて、米子西高校では「素描」という授業がありました。他の選択科目と扱いが同じなので、たとえば、英語の授業を受けている時間にこの授業を選択した生徒は素描をするんです。年間ずーっと。
─── すごく羨ましい。生徒によっては、美術漬けの人もいるってことですよね。米子西高校では、美術の授業における可能性というか、永江さんの中でもたくさん実験ができた、という感じなんですね。このような環境下で授業ができるということは、永江さんが生徒にさせたい内容が学習指導要領と両立できる、という感じでしょうか。
永江:そうですね。ちなみに、発展美術では「自分で素材を決めて、自由に制作していい期間」をつくっていたので、木彫りに挑戦する生徒もいました。
他にもB1パネルは絶対制作させたいと。あの大画面に、どういうふうにそれぞれが向き合うのか。生徒にはB1のパネルを水張り[8]して……。
─── いいですね!
永江:水張りは1年の授業からしているんですよ。B3サイズに、石膏デッサンとかをするので、その時に水張りも教える。これは高校美術で体験させたいことなので、米子南高校に赴任した今もやっています。
─── わかります。あれ、楽しいですもんね(笑)。永江さんのお話の中で、中学校ではできない高校美術でさせたいことが具体的にあるように思うのですが、ご自身はどのようなお考えがあるのでしょうか。
永江:「『ものをみる』ということがあるから美術がある」と考えているので、美術を通して「ものの見方」に重きを置きたい、というのがあります。だから、まずは「ものをみる」ということについてレクチャーするんですよ。
たとえば、こんなのがありますよね。
─── はい。よく見る図です。
永江:こうやって横に並んでると、まあ普通に「どっちが長いかな?」って考えるじゃないですか。でも、実は片方の長さを5ミリぐらい短くしてあるんです。そうすると、このクイズを知っている子は、「これは錯覚のクイズで、こっちが長く見えるけれども、実は一緒なんだ」って思う。だけど、実際に紙を折って重ねてみると、なんとこっちが長い。私の授業はここからスタートするんです。もうひとつは、アフリカ大陸を黒塗りにして、逆向きで提示する。一見オーストラリアかな?って見えるような、あるいは、南極大陸に見えるかな?ぐらいの角度で、山脈や国境をみんな黒塗りにして……これは世界地図のどこでしょう?と聞くんです。
─── (笑)。
永江:生徒は「ええ、どこ? 」「オーストラリア?」「南極だ!」「え、四国?」と混乱するので、「実はアフリカ大陸でした」と答え合わせをする。これらはインチキなクイズなんだけど、こういうふうに「しっかりと見ないとわからないこと」って世の中にたくさんあると思うんです。だから、やっぱり「ものをみる」っていうところからきちんとスタートしないといけない。
─── なるほど。いろんな「ものをみる」を提示しているんですね。
永江:ただ眺めているだけでは記憶に残らないけれど、しっかり見ようとすればちゃんと記憶に残る。このふたつをまず授業の最初にやって、ものをしっかりと「みる」ということを意識して授業をスタートしよう、と。制作は「みる」ことを考えるひとつのきっかけだと思うので、そこからいろんなものをつくる。ものを見ないと、やっぱり描けるものも描けないですから、技術だけをどんどん身につけるのではなく、「みる」ということを意識していかないと変わらない、というようなところを教えています。
─── なるほど。永江さんは「鑑賞が苦手だ」とおっしゃっていましたが、苦手だからこそ「みる」ことに対して強い関心があるんだな、とお話をお伺いして思いますね。
永江:かもしれないですね(笑)。
─── 鳥取県内の美術の先生たちの中で、そういう「ものの見方」とか、鑑賞について協議をする場面、というのはあったりするんですか?
永江:そうですね。研究授業で他の先生の授業を見たり、新学習指導要領になった時には、文科省からの伝達研修をどういうふうに活かしていくか話し合いをしたりはあります。でも、結局は個々の教員に任されるので、みんながみんな同じような授業にはなりにくい。新学習指導要領で、文科省は「ただ、作品をつくらせるだけではいけない」「美術を通して何を身に付けさせるのか」と言うんですけど、それに対して「いや、制作させることが大事でしょう」から抜けられないことは、往々にしてあると思います。だから「美術を通して子どもたちにどういう力を身に付けさせたいか」という部分に関して言えば、今の教育を受けてきている分、若い先生の方が柔軟ですよね。
─── なるほど。
永江:私自身、若い先生方から学ぶことって多いんです。教員になってから何年か経つと、そういう研修を受けるんですよね。私も年齢的に指導教官としていろんな先生の授業を見る機会がありますが、若い先生の授業で「なかなかおもしろいことをしてるな」「こういう実践いいよねえ」と刺激を受けることはよくありますよ。
─── 学習指導要領が新しくなり、先生たちに求められるものが変わっていく中で、永江さんご自身も何か変わったことってありますか?
永江:そうですね。教科書でも動画視聴ができるとか、QRコードで見れるとか、ICTとかはどんどん入ってきていますけど、新学習指導要領になったからといって変わったことは特にないと思います。ただ、「観点別評価」[9]は大きく変わったひとつかな。
─── 先生によっては「絵が描けたら、この生徒は高評価!」という評価をする方もいたと思いますが、今はトータル的に考えることが大事なんですね。
永江:そうなんですよ。主体的な取り組みって、日々の授業を観察していないと正しく評価できないし、下手をすると誤った評価をしてしまう可能性があるので、本当にむずかしいですよ。
─── 毎日真面目に来ているからといって、それが絶対的に「とてもいい」という話ではないですもんね。
─── 最後に、鳥取県で今後必要とされる「鑑賞教育」や「美術教育」のあり方について、永江さんのお考えを伺いたいです。
永江:そうですね。県民性もあるかもしれないし、田舎というのもあるかもしれないですが、自分の言葉を出すのが苦手な人が多いと思うんです。そういった人たちに言葉を求めると、やはりどうしても引いてしまうというか。「じゃあ、その人たちは鑑賞ができないのか?」というと、そうではないと思うんです。たとえば、メッセージカードに自分が思ったことを書いて、それを美術館の壁に貼る、みたいな。それに対して学芸員が回答したり、他の人たちが思っていることや、さらに疑問に思うことを投げかける、という感じで、「対話」ではないけれど「言葉のやりとりが恥ずかしい」というところで途切れさせないで、そういう人たちも巻き込んで進むような、鑑賞の手立てみたいなものがないのかな、という気はしますね。
─── なるほど。
永江:小学生とか、早いうちからそういうやりとりに慣れていけば……もしかしたら、言葉で臆することもなく、自分から「こういうふうに思うんだけれども、どうなんだろう?」と伝えられるようになるかもしれない。年配の方でも「見るのは好きなんだけど……」という方には、一言メッセージを書いてもらって壁に貼る。それにコメントが返ってくるとしたら、確認のためにもう一度来てみよう、と思えるかもしれないですよね。そうやっていろんなものの見方が伝わっていくと、「ああ、私と同じような考えの人がいる」「ええ、こんなふうにこの作品を見て思うの?」という意見も出てくるのかもしれない。何かこう、対話型鑑賞っていうのが叫ばれているのもひとつの方向としてあるけど、それとは別に「無対話型鑑賞」みたいなものがあってもおもしろいと思うし、鳥取県民にはそっちの方がウケるかもしれないですね(笑)。
─── そうですね。私は去年、鳥取県立博物館で小学生を対象にした対話型鑑賞のファシリテーターをしたのですが、学年によって「えー恥ずかしいよ」といった返しをされることもあり、生徒の年齢による難しさも感じました。
永江:個人的には、子どもたちが本当に作りたいものとか、描きたいものとか、表現したいものがつくれる美術教育ってなんだろうな、と考え続けています。課題とかテーマとか、どうしてもこちらから与えてしまいがちになってしまうので、そこから脱出したいんです。褒められたからそれをつくるのではなくて、誰の真似とか押し付けでもなく、本当にその子がつくりたいものを表現できる美術教育って……どうやったらできるのかな?っていう。新学習指導要領では「主題の生成」[10]がよく謳われているけれど、究極的にそれが本当にうまくいくかどうか。定年まで残り10年ですが、その中でそこは突き詰めなければいけない課題かな、と思っています。