鳥取短期大学 国際文化交流学科 渡邊太さん
鳥取短期大学の国際文化交流学科で学科長を務める、社会学者の渡邊太さん。過去に関わった大阪でのNPO活動を通じて、アートや公共性への関心を高めた渡邊さんは、鳥取へ移住後、倉吉市のアーティストインレジデンス事業「明倫AIR」を通じて民藝の魅力にハマったといいます。鑑賞教育に関するインタビューは後半、倉吉の地域性や民藝の歴史、美術館のある未来を横断しながら、地方での「まなざしの力」の重要性に話が及んでいきます。
聞き手:蔵多優美/
写真:野口明生/
テキスト:木谷あかり
インタビュー実施日:2022.10.03
記事公開日:2022.12.01
─── 渡邊さんは社会学がご専門ではあると思うのですが、ご自身がアート系のNPOで活動されていたり、鳥取短期大学が鳥取県立博物館との連携で対話型鑑賞を取り入れた授業を実践されていることから、鑑賞教育でもとりわけ「社会においての美術鑑賞」という観点からお伺いしたいです。まず初めに、渡邊さんはどのような経緯で鳥取に来られたんでしょうか。
渡邊:以前は関西の私立大学に勤めていましたが、任期5年で雇い止めになり、鳥取短期大学の国際文化交流学科の求人に応募して採用され、鳥取に来ました。大阪にいたときは、2004年ぐらいから「地域文化に関する情報とプロジェクト(recip)」[1]というNPOの活動に関わっていました。元々、宗教の研究をしていたんですけど、大学院の先輩から声がかかって、NPO recipで、アートプロジェクトの記録をする活動に誘われたんです。僕は社会調査士という資格を持っているので、そのスキルが何か別の分野で活かせるならおもしろいな、と思って、一緒に参加するようになりました。その頃は大阪の現代美術がすごく盛り上がっていた時期なんです。recip自体は別に事務所があったんですけどかかわりが深くて、フェスティバルゲート[2]の立ち退き問題が出たときには、入居しているNPO団体と一緒に立ち退き問題を考えるための連続シンポジウム[3]の記録に奔走したこともありました。
—— そうなんですね。
渡邊:アートNPOの活動に関わる中で、「パブリックってなんだろう?」という関心が強まっていったように思います。市長が変わり左右される状況の中で理不尽さみたいなものを感じたりして。現代アートにしても「公的な資金を投入することの妥当性、合理性は何か?」みたいなことがすごく議論されたし、自分たちの間でも「何かしらの意味はあるよね」と議論していたんです。逆に、そういう「際(きわ)」みたいなところが無くなってしまって、みんなが楽しめるエンターテインメントだけあればいいのか、というと、やっぱりそうじゃないと思うんですよね。大きく言うと「文化と公共性」みたいな。そういうことを考えていたり、自分の活動としても「大淀南借家太陽2」[4]という自宅兼カフェをやっていたんです。そのあたりのことは、この「愛とユーモアの社会運動論」[5]という本に詳しく書いてあるので、第三部を読んでいただけると……。
—— (笑)。
渡邊:その自宅兼カフェは、元の店主が辞めるので跡を継いだんですが、やってみると「人が集まる場」や「他人どうしが場を共有する時間」みたいに一応開かれていたんです。そこから知らない人も混ざってくる「場」の違いや公共性について考えるようになり、その頃「サードプレイス」[6]という概念に出会いました。広く社会全体から見たときに、一部特殊に見えるかもしれないものが担っている意味や意義、可能性っていうのが気になっていったんですね。
——私は鳥取出身ですが、大学進学を機に11年ぐらい京都に住んでいました。渡邊さんが鳥取に来るまでのお話を聞くと、関西コミュニティのおもしろさやコアさを思い出して、「あ〜その辺りのコミュニティにいらっしゃったんだ〜」と感じてます。
—— 渡邊さんが鳥取に来られて以降、短大での活動だけでなく「明倫AIR」[7]にも関わっておられるようですね。それ以外にも鳥取でされている活動や研究があればお聞きしたいです。
渡邊:はい。鳥取には縁もゆかりもなく来て、ではあるんですが、実は、鳥取と縁があったというか「絡めとられていた」みたいなところがあるんです。明倫AIRの初代招聘アーティストは中村絵美さんでした。中村さんは2017年に再招聘され、そのときは久保田沙耶さんも一緒に招聘され、2018年からは久保田さん単独での滞在がつづいています。久保田さんから「ある程度長期的にやりたい」というお話があったそうなんです。久保田さんが一人で滞在制作を始めた年と、僕が倉吉に来た1年目がたまたま重なっていたこともあって、「倉吉」という地に引き遭わされたというか、巻き込まれていくような流れを感じました。ちなみに、中村さんは僕のパートナーと大学院で同じ研究室だったんですよね。そういった縁もあって。
中村さんや久保田さんに話を聞いて、僕も倉吉の人たち、特に長谷川富三郎[8]に興味関心を持ったので、2018年からリサーチを始めました。久保田さんと一緒になって、それぞれが調査をしつつ、情報交換しながら協力しつつ…みたいな感じでやっていきました。ちなみに報告書を毎年作っていて、そちらにまとめています。
渡邊:調べれば調べるほど、いろいろ出てくるんですよ、おもしろい話が。長谷川さんが明倫小学校の教員をしていたので、直接教わった人たちの高齢化が進んできて。20世紀の半ばから後半にかけて倉吉で花開いた民藝のいろんな動きが失われつつあることを知りました。まさに「今が際」みたいなところがあって、ここで調べておかないと失われるものは大きいんじゃないか、という危機感から、記録していこうと思いました。そして、そういったことに、現代美術作家である久保田さんが興味を持った、ということ自体もおもしろいな、と思って。久保田さんはめっちゃ模写するんですよ。20世紀の倉吉の、いろんな人たちの作品を模写して、それをもとに自分の作品をつくりあげていく…というプロセスがおもしろいんです。
—— なるほど。
渡邊:そういえば、こんな雑誌を見つけたんです。
—— えっ、現物ですか?
渡邊:はい。和紙製で、ちょっと色の濃い方は玉ねぎの皮で色付けをしているんです。版画とかも一個一個摺っていて、目次も貼り付けて…「いや、すごいな」と思って。なんと、戦争が終わった翌年の昭和21年に発行されている。大変な意気込みでつくられていて、中身もアツいんですよ。
—— 鳥取市の民藝文化とは若干違うというか、倉吉独特という感じがしますね。私が鳥取大学に勤務していた際に関わっていた事業[9]で鳥取市のものを見せていただきました。いや…こういったインタビューでこういったものを見せていただくのは胸熱です…!
渡邊:これは校正刷りのためにとっておいたものをいただいたので、発行版であればここに棟方志功[10]が入っているんですよ。もし入ってたら、とんでもない値段になっていたと思います(笑)。長谷川富三郎なんかは多作で、山ほど版画を摺っていたから、倉吉の町中に作品があふれているんですよね。そのへんの食堂とか居酒屋とか行くと、必ず掛かっている、みたいな。商店街のウインドウにも大体飾ってあったりとかしてね。とんでもないことだと思ったんです。普通は名画のコピーが飾られているようなところに、地元の作家の作品が掛かっている。それだけ地元で愛されていたとも言えるし、押しが強かったのかもしれないですけれど。
—— (笑)。
渡邊:だから「言い値で売ってた」とか「人にあげることもあった」という話もあったりして。もちろん、長谷川先生のパーソナリティーと作品が、どこの家にも馴染むのもあると思います。だから、そういう文化とか芸術…特に「地元の作家を大切にする」みたいな倉吉の文化が、受け継がれずに消えてしまうのは惜しいなあ…と思っています。近年はコロナもあって、昔ながらのお店がたくさん閉店してしまったんですよ。
—— 倉吉もそうなんですね。
渡邊:ええ。大体は跡も継がれずに…。別のお店が入ればいいんですが、老朽化している建物だと、そのまま解体になったりして。良心的なところだと、古道具屋さんを呼んで引き取ってもらったりするけれど、そうやって手をかけるのも大変だから、不動産業者に任して全部瓦礫に…みたいなことも、結構起こっているんじゃないかと思うんですよね。個人の私的な所有物ではあるんですけれど、公共性という観点から見ると大切なものが失われていってるんじゃないかと思うわけです。
—— 大阪時代はアートプロジェクトに関連してインタビューや研究をされていて、鳥取でもそのような活動を継続されていると思いますが、「大阪でやるインタビュー」と「鳥取でやるインタビュー」で、渡邊さん的に何か違いはありますか?
渡邊:そうですね。大阪でリサーチをしていたときはアンケートとインタビューをとっていたんですけど、「プロジェクトの記録」においては万遍なく全体をカバーできるように、なるべくいろんな人からリサーチしていました。「万遍なく収集していく」というのは、社会調査の基本といえば基本ですよね。
渡邊:一方で、鳥取では「長谷川富三郎はどんな人でしたか?」と万遍なくインタビューするよりも、長谷川富三郎に対する個別的で特殊な話が意味を持つと思うんです。「民藝」という世界ゆえなのかもしれませんが、「誰が言ったか」みたいなことがすごく重要であったりだとか。あとは、その人の「偏った見方」みたいなのが結構大事なんだなあと思って。必ずしも事実が語られているわけではないかもしれないけれど、その人はそう思った、みたいなところですね。
—— うんうん。
渡邊:2020年の明倫AIRで「観音さまの思い込み」[11]というタイトルを久保田さんと相談しながら付け、倉吉博物館で開催しました。鳥取に来て、活動を通して思うんですが、民藝って…やっぱりね、怖い世界だと思っていたんですよね。なんかね、独特の世界っていうイメージがあって(笑)。
—— そうかもしれないですね。実は私、家系的に祖父の代まで鍛冶屋を営んでいまして、吉田璋也[12]から依頼されて民藝品をつくっていたんですよ。言い伝えでは、当時、鳥取市の鍛冶共同組合の事務局がうちにあったそうで、吉田さんから「民藝品作って」って電話があったとか。私自身にそういったバックボーンがあって、個別的で特殊な話が意味を持つ、とか独特の怖さは血筋で感じるというか(苦笑)。
渡邊:そうなんですね。「サヨナラ、民芸。こんにちは、民藝。」[13]という本があるじゃないですか。あれを開くと、最初に「お詫びと訂正」っていう紙が1枚はさまっているんです。「重版ということで許諾したが届いたのは改訂新版で、巻末に〇〇氏の所論が加えられている。私が巻頭に文章を書き、巻末に〇〇氏が文章を書くと、あたかも合意や共感があるかのような印象を読者に与えることを危惧し云々(大意)」といった内容が…それを見て、これは民藝に対しては下手なこと言えないな、と思って。「民藝」の字も、略字を使うと怒られそうだし。だから、自分がそこに対して調べたり書いたりは「怖くてできないな」と思ってたんですが、やらざるを得なくなったのでいろいろ調べ始めたんです。
渡邊:去年は鳥取大学公開講座『「民藝」という美学』[14]を受講しました。民藝についていろんな講義を聞きに行くと、やっぱり思い込みが強いなあと感じます。「思い込み」という言葉はネガティブな意味で使われることが多いけれど、日本国語大辞典には「一途に心を打ち込むこと」と書かれています。「固く信じたり、求心したり、愛したりすること」という、従来の前向きな意味で、みなさん「思い込みが強い」と感じたんです。偉人たちのやりとりとか、実際の様子を見ていなくても、見てきたように語るじゃないですか。でもそれは、ちゃんと見ているから。幻視しているというか、残されたものを通じて見ているんですよね。なので、鳥取に来てからは、いろんな人の思い込みを個別に掘り下げていくようなリサーチの仕方に変わってきていると思います。
—— なるほど。渡邊さんのお話を聞いていくと、今回のアイアイのインタビューも鳥取っぽいインタビュー方法なんですよね。「自由にインタビューしていけば、何か出てくるんじゃないか」というところから始めたので、万遍なく…ではないかもしれない。渡邊さんのおっしゃるように、鳥取においては「個」の力や考え方、「誰がどう言ったか」のほうが絶対大事だと思いますね。
渡邊:ええ、そうかもしれませんね。
—— 渡邊さんは大阪時代から「アートが地域にもたらすもの」について関心を持って活動されていて、鳥取に来てからも明倫AIRに関わっていたり、短大と県立博物館が連携した対話型鑑賞での実践という点で「鑑賞教育」にも関わっておられるのかなと。鳥取で鑑賞教育に関わる意義や課題など、ご意見があれば伺いたいです。
渡邊:そうですね。広い意味での「アートと社会の関わり」みたいなところで、大阪では大学の非正規労働の問題やひきこもり・ニート関係などの社会運動にも少し関わっていました。2000年代はデモが盛んに行われていた頃なんですよね。サウンドデモ[15]のようにアート・アクティヴィズム[16]みたいなかたちで社会運動が接近して、アーティストも参加するような動きがあった中で、「アーティストと社会運動」みたいな部分に興味を持っていたんです。2011年にニューヨークであったオキュパイ[17]も半分ぐらいはアーティストや美術系の学生とかがかなり深く関わっていた、みたいな話もあったりして。アートが持つ社会問題提起機能というか、アートを道具的に捉えているようなところもありますけれども。まあ、アートには「目に見えないものや見えなくされているものを見えるようにする」みたいな役割もあるじゃないですか。社会課題を啓蒙的じゃないやり方で表現できる、というようなところで、政治的な問題意識をくすぐる力もあるんだなあ、と思って。わけのわからないやり方で揺さぶってくる、みたいな。
渡邊:鳥取にもよく来られる白川昌生(しらかわ・よしお)[18]さんの作品とかでそう思いますね。無人駅で焼きそば(ペヤング)を食べる[19]、みたいな。一見すると「なんなんだ!」みたいなことですけど、いろいろ文脈を考えてみると、すごく深い意味があったりするっていう。そういう意味では、わけのわからないものにこそ教育的な機能があるとも思うんですよね。鳥取に来てからの活動で言うと、圧倒的な機会の少なさを感じます。大阪は京都や神戸までひっくるめて移動も簡単だし、アートに触れる機会も多かった。だからこそ、学校教育の中でそういう機会をつくるのも大事なんだろうな、と思っています。
—— うんうん。
渡邊:対話型鑑賞を県立博物館と連携して実施する経緯は、短大にオファーがきたんですね。短大には、いろいろな学科や専攻があるんですが、国際文化交流学科がやることになりました。学科名に「交流」という名前があるように、コミュニケーション力の養成を目標にしているところもあるので、学生たちにとって、対話型鑑賞での学びを通して、特にファシリテーションができるといいな、って思うんです。短大生は県内就職が8割ぐらいで、ほとんどが地元に残ります。将来的には、ある程度マネージメント的な視点も身につけて、中間管理職を担えるように…と考えると、自分が率先するようなコミュニケーション力以外にも、「周りを乗せていく」みたいなコミュニケーション力が必要じゃないかと思うんですよ。
渡邊:「コミュニケーション力を身につける」という目標を掲げている分、入学までに苦労や挫折を経験している学生も多いんです。どちらかというと、割と傷ついた経験のあるような子たちが、違うことを言っても肯定される場が、対話型鑑賞では生まれるんですよね。だから、今まで人と違って傷ついてきたような人たちが、そこでちょっとリハビリできるというか。学生の書いた感想を読むと、「言ってもいいんだ」とか「人と違っている自分の特性が活かせる場もあるんだ」といった言葉があって、そういった経験になるのは、確かにいいな、と。
—— あぁ、素敵なことですね。社会の中の一部として「まあ芸術は知ってるよー」ぐらいの感覚でも、アートを通した活動で少しずつ興味を持ったり、リハビリになることもあるんだ、と思いました。すごいことです。
渡邊:感想の中には「もし自分が一人でこの作品を見ていたら、絶対素通りすると思ってました」というものもありました。みんなで強制的に10分間見て話してみると、いろいろ見えてくるんだなあと。なおかつ「地元の作家でこんなにおもしろいことやってる人がいるんだなあ」というように、興味を持つきっかけになるかもしれない。鳥取に来てから、自分自身も少し郷土愛みたいなものを意識するようになりました。この地域にもたらすもの、とか、この地域で卒業して働いていく学生たちがどういう役割を果たすのか、とかね。真面目に考えるんですよ。大阪にいた時は「なるべく混乱を引き起こす」みたいなことが社会学の役割でもあるんじゃないか、と思っていたんですけどね(笑)。
—— 現在の対話型鑑賞では、絵画や立体彫刻をメインに扱う事例が多いのですが、一方で、現代美術作品を用いた対話型鑑賞、というパターンももちろんあります。でも現代美術作品の場合、作品の中に描かれている社会学的な背景とかも踏まえないと、ファシリテーションするのが難しい領域だと思うんですね。
—— そもそも「現代美術の鑑賞力が地方で鍛えられるのか?」と考えた時に、直接的な回答を持っている人は結構少ないと捉えているんですよね。渡邊さんは社会学的な立場からアートに接しておられるので、今までの美術史文脈とは違うような、現代美術の文脈で語れる方かなのかな、と思っています。そこで、社会学的な観点で作品を観ることについて、渡邊さんのお考えを伺いたいです。
渡邊:おお、なんか難しい問い……(笑)。
—— ですよね、すみません(笑)。都会では何かを見る機会が確実にあるので、一般的な人でも「あれはアートだよね」みたいに知見が蓄えられると思うんですけど、地方においては「美術館で飾られるのみがアートだ」という傾向があるように感じていて。彫刻や現代美術作品の展覧会があっても、鑑賞の仕方を伝える機会が少ないから、こじんまり終わっちゃうというか、場が開かれてないんじゃないかな?という課題意識があるように思っているんです。山陰のような地方においては「学校教育」がすごく重要だと思うので、このプロジェクトでは実際に現場で実践されている方々を訪ねて、鑑賞教育の観点からお話を伺っています。今回、渡邊さんには社会学という観点で、対話型鑑賞やご自身の活動と絡めて、何かお考えがあれば聞かせていただきたいです。
渡邊:そうですね。やっぱり「アンディ・ウォーホルで対話型鑑賞をやる」っていうのが結論じゃないかな、と思うんですけどね(笑)。実際に現代美術作品で対話型鑑賞をやってみたらいいと思うんですよ。鳥取県立美術館の計画でいくと、美術と触れる入口みたいなところで、間口を広げよう、ということだと思うんですよね。小学生といっても、すでに「美術とはこんなもんだ」みたいな概念があるでしょうから、それをアンディ・ウォーホル作品に崩してもらうと。それが、ウォーホル作品じゃなくてもいいんですし、その時はわからないままで終わってもいいと思うんですよね。対話型鑑賞ですべてをカバーすることはできないと思うので、どちらかといえば、「万遍なくカバーするか」「思い込みの方か」でいうところの「思い込みの方」を育てていく感じかな。
—— なるほど。
渡邊:自分なりの思い込みを育てていく中で、鑑賞する経験が何度かあって「そういう見方もあるんだな」と感じたときに、ものを見る枠組みの方が変化するようなこともあると思うんです。現代美術といっても、今回例に挙げたウォーホル作品のようなポップアートだけではないと思うんですけど、「ものを見る枠組みを揺さぶる」みたいな作品も結構あるじゃないですか。そういう「揺さぶられる経験」が大事なんじゃないかな。そこで「教育の場」というものが貴重な場になるんじゃないかと思います。
渡邊:あとは「探究学習」みたいな感じで学校司書さんを巻き込むといいんじゃないかと思うんですよね。「対話型鑑賞で観た芸術作品に興味を持ったので、ちょっと調べてみたいです」っていうときに、学校図書館に現代美術の本が1冊も無かったら大変じゃないですか。対話型鑑賞自体はひとつの経験として十分に役割はあると思うので、そこから広げていきたいと思ったときに、アクセスできる情報源ができるだけ見つけやすいところにあるといいなあ、と思います。
—— 今は一人一台タブレットやパソコンを持っていると思いますが、「学校で何か調べる」っていったら図書室ですもんね。ちなみに、今までの「みる」活動を経て、渡邊さん自身で何かつくってみたことはありますか?
渡邊:つくってはないですけど、ラッパーになりたいと思って、ラップは最近ちょっと練習しています(笑)。まだなかなか人前では披露できないですけど、やってみることが大事だと思っているんです。「見てるとやりたくなってくる」っていうね。仕事が忙しくなければ、もうちょっといろいろやってみたいな、とは思ったりします。
—— 渡邊さんがこれまで関わったり見てきたりしたアートプロジェクトの中で、鑑賞の場としてすごく開けているというか、「みる」ことに対して特に注力していたと思うものはありますか?
渡邊:明倫AIRでいうと、長谷川富三郎をはじめとした地元の作品と久保田さんの作品を併せて、倉吉博物館で展覧会をやってきたんですが、久保田さんが「民藝だからホワイトキューブ的な白い壁に展示するよりいいんじゃないか」と提案してくださって、受付の奥にある応接室で展示させてもらったんです。
—— 応接室も展示会場だったんですね。おもしろい。
渡邊:そうなんです。毎回十数人ぐらいの集まりでやっていることもあって、ギャラリートークではたくさん感想をいただきました。対話型鑑賞的な感じで、「思ったことを言ってくれる」みたいな。だから、素朴でこじんまりとした、小さな集まりって大事だな、と思います。コロナ以前までは、久保田さんがガラスの絵を言い値で売る「コレデ堂」[20]というのもやっていました。その「言い値で売る」というやりとりが、すごく特異な鑑賞法でもあると思うんですよ。買うつもりで見て、これに対していくら払うかを自分で決めるっていうね。
—— 確かに。言い値って「目利き」ですからね。なんか県立美術館の現状にもつながるような……。
渡邊:そうそう。これに3億円出すのか!みたいなね(笑)
—— 作品に対しての価値が各々に考えられるというか、それもひとつの鑑賞かもしれないですよね。
渡邊:鑑賞ですよね。かつ、作家との対話っていう。久保田さんも、いろいろ質問されたみたいです。「これ材料どれぐらいかかるんですか?」とか「何日ぐらいかけて描きましたか?」とかね。
—— 作品の鑑賞法として、「あるものをみんなで見る」というイメージがメインストリームになりつつあると思うんですけど、私は「言い値で買う」とか「自分で考える」みたいなところにも光を当てていくべきだと考えているので、山陰でもそういう活動をやっているのはすごくおもしろいと思いました。
渡邊:ありがとうございます。
渡邊:以前、北海道に行ったときに、札幌の地下歩行空間で菊の展示を見たんです。雪が降ると地上を歩けないから、札幌駅から大通りまで行けるように、地下道が広大に発達しているんです。通路の両サイドがちょっとした展示スペースになっていて、学会か何かで行ったときに、札幌の知り合いと歩いてたら、たまたま菊の展示をやっていたんですよね。僕はそんなに菊とか興味なかったんだけど、あると見るじゃないですか。中には県知事賞を受賞して花丸のついたやつがあったりして、確かにちょっと違うなって。見ていくうちに菊に対する感性が芽生えて、鑑賞力が上がっていったような気がするんですよ。
—— なるほど。上がりそうですよね。
渡邊:都会の魅力ってそういうことなんですよね。歩いているだけで鑑賞力がアップする、みたいなことが起きるんです。地方だと「菊品評会」みたいなところに行かない限り、何百輪もの菊を見ることはないけれど、ぼんやり歩いてても、何百輪もの菊が向こうから目に入ってくるわけですよ。ただ、対象自体のおもしろさと、その対象を見る側のリアクション力は相関関係にあるとも思うんです。だから、地方でも「キャッチする力」というか「まなざしの力」みたいなものを鍛えておけば、商店街を歩くだけでもいろいろ見つけることができるんですよ。そういう意味では、より主体的な鑑賞力が問われるのは、実は地方なんじゃないか、と。
—— 確かに。
渡邊:普通の風景なんだけどなんかおかしい、と気付く宝探し能力みたいなものが、美術鑑賞から培われていくんじゃないかと思います。
—— 現代美術は特に、主体的に動かないと「わからない止まり」で終わっちゃう。それだけでもいいとは全然思うんですけど、宝探し能力がないと「じゃあこれは何?」まで至らないかもしれないですね。
渡邊:「わからない」が「やばい」になって、「やばい」から「なんでだろう?」が生まれる。「わからない」「やばい」「なんでだろう?」の三段活用みたいな(笑)。
—— いいですね。実は私が対話型鑑賞を始めたのは、今までの自分が「わからない」「やばい」止まりだったからなんです。自分自身、言語化が苦手だということもありましたし、高校生に美術を教えていた時に、生徒たちも物は見ているんだけど、「やばい」から先の言語化が難しい人も多いと思っていて。それを鍛えるのは、いわゆる「アクティブラーニング」とか「対話型鑑賞」かもしれないんだけど、全員が全員、言語でコミュニケーションすればいい、というわけでもないと思うんですよね。
渡邊:うん。でも、対話型鑑賞って日本語の授業でもあると思うんです。自分の感性との付き合い方、というところで、ファシリテーションのような「場の関係性づくり」だけじゃなくて、「感じたことを言葉にして人に伝える」という言語化の側面がある。感動したときに「やばい」以外の言葉でどう表現するかっていう。そのために、やっぱり日本語勉強しましょう、って言うんですけどね(笑)。
—— 渡邊さんは社会学が専門なので、美術教育との直接的な関わりは少ないかもしれませんが、今後必要とされる「ものの見方」とか「鑑賞教育」について、社会学的な観点からお考えを伺いたいです。
渡邊:そうですね。社会学には「文化資本」という考え方があるんです。高等教育のステップをあがっていくうえで、幼い頃から前衛的な美術作品に慣れ親しんでいると、社会で有利に働いたり、機会も可能性も増えていく。だからこそ、学校教育を通じた平等な機会の創出というのが大事になってくると思うんですね。美術教育でいうと、長谷川富三郎の考え方がおもしろいと思っています。著書の中で、長谷川さんは「物と心は相関関係にある」というふうにおっしゃっていて。「郷土の教育」みたいなことを言うんですけれど、そのためには、郷土で普段使われてきた、優れた郷土の工芸品を通じて、心の教育をしていくことが大事だ、と。教育者として「郷土愛」みたいなものをいかに育むか…みたいな話だったんですけど、やっぱり「物がある」というのは大事なんですよね。アンディ・ウォーホルも図録で見るだけじゃ足りないので、3億円が必要だと思うんですよ。
—— (笑)。
渡邊:ウォーホルに限らず、やっぱりちゃんと物があって、目にする機会がある。なんなら触らせてもらえる、みたいなね。作品のアウラ[21]は実在すると思います。あと、これは社会学の立場なのかどうかわかんないけども…倉吉の民藝はエピソードがおもしろいなと思ったんですね。たとえば、倉吉絣を研究した染色家の吉田たすく[22]は青山剛昌[23]先生の中学時代の恩師で、彼に絵を描くのを薦めたのは、実は吉田たすくさんだったという。画家の前田寛治[24]は、戦前のマルクス主義の理論的指導者だった福本和夫[25]と北条町[26]の同級生で、彼とパリで再会して以降、マルクス主義的な影響を受けて「写実」っていう概念にたどり着く、みたいなね。出てくるエピソードがいちいちおもしろいんです。でも、意外とそういう小ネタが大事なんじゃないかと思って。地元に関わる小ネタ的なエピソードが興味持つきっかけになったり、全然違うもの同士が繋がっていたり…鳥取で生きていくうえで、そういう発想は不可欠だと思ったんですよね。
—— 鳥取は本当にネタが豊富ですよね。
渡邊:うん。いろいろとおもしろい作家がいるので、それをしっかりと掘り起こすとともに、自分と繋げていかないといけないっていうね。余分なこととか余計なこととか、やっぱり大事にしたいですよね。県立美術館に期待するものは大きいし、みんな頑張っているがゆえに炎上もすると思うんです。合理化はしょうがない、みたいなところはあるんですけど、市場の論理を無視するわけにもいかないので。それでいくと、対話型鑑賞も「いかに役に立つか」みたいなところでアピールしなきゃいけないんだけれども、それがすべてではないとも思っているわけです。だからまあ、あの…二枚舌、みたいなのは、常に意識はしていて。「これからの美術教育に必要なのは二枚舌である」みたいなね。これは本当にそうだと思うんですよ。対話型鑑賞にしても「背景や文脈や知識は気にせず、率直に見ることが大事です」と言いながら、作品制作の背景にある社会状況や作家の問題関心とかは大事ですよね、っていう。
—— 繋げていく重要性ですね。
渡邊:どっちかだけじゃないから、どっちも言うと二枚舌になるんだけど、それがリアリティなんですよね。「一枚岩じゃないよ、二枚舌だよ」といって、現実の裂け目や複雑さを学ばせてくれるのが現代アートじゃないかな、と思います。